われてもすえに…
『磐城政信』という名前ぐらいしか分からない年下の男。
身分を隠した『家来の藤次郎』政信が語るだけでは人物像が掴めない。
不安を残したまま、『藤次郎』と付き合い『政信』の事を聞き出そうとしたが、
いつしか、目の前に座る『藤次郎』本人の話に聞き入ってばかりだった。
藩の領地の話。江戸の町の話。彼の昔話、失敗談、おもしろ話。
何もかもが、公家では聞いたことのない物ばかりだった。
そして、知らないうちに将来の夫『磐城政信』が『藤次郎』と重なっていた。蛍子は、その考えを何度も考えを改めようとした。
しかし、夢に出てくる『磐城政信』は『藤次郎』そのものだった。
夢の中では蛍子は『藤次郎』に笑いかけ、『藤次郎』もそれに答える。
『政信殿』と呼んだはずが『藤次郎』になり、相手は『姫さま』ではなく『蛍子』と呼ぶ。
その夢を見て起きた時は幸せな気分になったが、後ろめたさも感じた。
気付かないうちに、蛍子は『藤次郎』が好きになっていた。
初めて好きになった男と、まだ見ぬ夫への不安との間で苦しみ始めた。
その日の夕暮時、離れに訪問者があった。
小太郎の父、瀬川良武だった。人を連れ、蛍子に面会を申し入れた。
蛍子は拒むことはしなかったが、御簾を下ろし、良武を部屋に入れた。
「何用じゃ?」
「姫さまに、お引き合わせしたき者がございます」
「妾に?」
「はい。侍女を一人」
「……侍女?」
「彰子一人では、何かと不便かと思います。どうかこの者を傍に置いて頂きたく」
蛍子は、良武の背後に眼をやった。
そこには女が一人座っていた。
江戸のこの屋敷に来て初めて見る若い女だった。
少し興味が湧いた蛍子は、その女に声をかけた。
政信との出会いで、ただ一方的に拒むだけでは得られない物がたくさんあることを学んでいた。
「名はなんと申す?」
「真菜《まな》と申します」
「歳は?」
「二十一にございます」
「そうか。瀬川、下がって良い。真菜と話がしたい」
この言葉に、良武は驚いた。
「……侍女の話、受けてくださいますか?」
「受ける。彰子には、妾から言っておく」
良武が下がると、蛍子は真菜を近くへと呼び寄せた。
「そなたの話が聞きたい。良いか?」
「はい。では、手短に」
真菜は蛍子に自身の身の上を話し始めた。
「生まれも育ちもこの江戸でございます。父はこの藩の藩士でございます。
今は隠居し、弟が継いでおります。私は、同じ藩の藩士に一度嫁しました」
「……一度?」
蛍子は彼女の言葉が気になった。
「はい。去年、夫に先立たれた故、今は一人でございます」
「子どもは?」
「……息子が一人。しかし、今年の初めに病で亡くしました」
穏やかな口調で、悲しい過去をさらっと言った真菜に蛍子は胸が痛くなった。
「……」
「御心配なさらず。すべて乗り越えました」
笑顔を浮かべる真菜が蛍子には不思議に思えてしょうがなかった。
「……しかし、なぜ妾のところへ?」
「父経由で、侍女のお話が参りました。それで」
「理由は?」
「お歳が近いこともありました。しかし、一番の理由は、お役に立ちたかったからです。
一度死んだようなこの身、姫さまのお役に立てればこれほどうれしいことはございません」
穏やかな真菜の言葉に、蛍子は打たれた。
「妾の傍で、話し相手になってくれるか?」
「はい。喜んで」
寂しい蛍子に、新たな味方が増えた。
それから三日後、国元では、小太郎の記憶を頼りに人相書きが出来上がった。
準備が整ったので、政信は屋敷から抜け出して通り魔征伐に向かおうと一人計画を練っていた。
一方、小太郎は退職願いを申し出る決心をついに固めていた。
喜一朗はその日、休みで帰宅していたが、主に言うのが先決と覚悟を決め申し出た。
「……殿、折り入って話がございます」
「ん? そうか、わかった。離れに行こう」
「はい」
日があと少しで落ちる時刻、二人は庭が見える離れにいた。
空は燃えるような夕焼けだった。
「よし、明日は晴れだ。抜け出すのにいい日和だな」
主の楽しそうな顔に、『はい』と小太郎は返事ができなかった。
暗い様子に政信は気付き、声をかけた。
「やっぱり、なんか悩み事があるな。いつものお前らしくない」
「……」
「いいから、言ってみろ」
しばらく沈黙が続いたのち、小太郎は意を決して口を開いた。
「……小姓の職を、退かせてください」
突然の退職願に、さすがの政信も驚いた。
「どうしてだ。理由は?」
小太郎はあらかじめしっかりした理由を考えていた。
賢い主を、作った嘘で騙すことは不可能。
嘘偽りない本当の話をするつもりだった。
「……今から申し上げる事を信じて下さいますか?」
「あぁ。約束する」
その言葉を信じ、主を信じ小太郎は真実を打ち明け始めた。
「……実は歳を偽っていました」
「幾つなんだ本当は?」
「今年十になりました」
言った途端、政信は笑った。
「……からかってるのか?」
「いいえ。からかってなど……。私は本当はやっと十になったばかりの子どもです」
政信は相変わらず、顔に笑いを浮かべていた。
「そんなでかい図体で、どこが子どもだ? 本当の事を言え」
「……はい。あと少しで、父瀬川良武の帰国次第、元の姿に戻ります」
「お前の親父は良武だったか。……それで、親父が帰ってきたら、お前は俺の側に居られないと?」
「はい。私は子どもなので」
「そうか。やっぱりガキだったか。で、本当の名前は?」
「諱《いみな》は良鷹。字《あざな》は小太郎と」
「小さい太郎か?」
「はい。……わかって頂けましたか?」
政信はまた笑い始めていた。
「……わかるわけないだろう。そんなわけのわからん話。ほんとは十だが、姿が十八。親父が良武。じきにお子様に戻るなんて」
「そうかも知れませんが……」
すると、ぴたっと笑うのをやめ、政信は怒鳴った。
「もういい! 下がれ! 戯言は聞きたくない! 俺にウンザリしたなら、嫌いなら、はっきりそう言って退職すればいいだろう!? なんで作り話なんかするんだ!?」
「作り話などではありません」
「誰が信じるか!? そんなお伽噺みたいなこと! 本当のことを言え!」
小太郎は、これ以上の弁解は無理と見て下がることに決めた。
しかし、政信は荒れたままだった。
「おい、なんか言えよ! 逃げるなよ!」
その言葉に、小太郎はこう返した。
「……私は、殿が好きです。尊敬しています。許されるのなら、ずっとお傍にいたかった。
でも、無理。できないから……。俺、子供だから……。役立たずだから……」
「えっ?」
「……申し訳ありません。失礼致します」
暗くなった離れには、政信が一人取り残された。