われてもすえに…
しかし、そうとは知らない喜一朗は余計な心配をしてしまっていた。
皆で美味しい饅頭を美味しい茶でいただいた後、主従は藩邸を後にして江戸の町へ物見遊山に出かけた。
何か面白い物はないかとぶらぶら歩き、買い食いしている最中、小太郎は視線を感じた。
しかし、なにもなかったので気にせず主と先輩にくっついて歩いて行った。
夕方、そぞろ歩きを終えてそろそろ隠れ家に戻ろうとした矢先、突然声をかけられた。
「これ、待たれい!」
「何用ですか? ……あっ」
喜一朗が驚いて固まった。
それに気付き、声をかけてきた人物を見た小太郎も、驚きのあまり同じように固まった。
おかしな二人の小姓を目にした政信は笑ったが、すぐに止めた。
「……げっ」
男は、小太郎の父の良武だった。
「やはり若様! ここで何をされているのですか!?」
小太郎の父良武は、政信の後見役だった。顔もよく見知っている。
それ故、小太郎が小姓になる際苗字を教えたら、驚いた。良武と同じ苗字だったからだ。
焦った様子の良武が男三人の元に走ってきた。
すぐさま、喜一朗は逃げる態勢に入った。
「喜一朗、良鷹、後は頼む!」
すばしっこい主は逃げてしまった。
「え!?」
驚きで立ち尽くす二人の前に、怒った様子の良武が近寄って来た。
すぐさま喜一朗に向い叱り始めた。
「おい、喜一朗。何をしてるんだ! お前は小姓だろう? なぜ若様が国ではなくてここにいるんだ!?」
「それは……。その……。おい、良鷹、お前も何か言えよ」
しかし、小太郎は立ち尽くすばかりだった。
初めて見る父親の仕事の顔。家では決して見られないその珍しさに見入っていた。
また、いつも見上げていた大きな父が小さく見えたことに驚いていた。
「誰だお前は。お前も小姓か?」
「え? あ、はい」
突然父に声をかけられ小太郎は再び驚いた。
「名は?」
「え?」
「名は何だと聞いておる!」
話がかみ合わない二人を隣で見ていた喜一朗だったが、はっと我に返り小太郎の腕をつかんだ。
「……今だ逃げるぞ」
「え? はい。では、また!」
小太郎は父に別れを告げ、喜一朗に引っ張られながら走って逃げた。
逃亡した小姓二人を、良武は必死になって追いかけた。
「おい、逃げるんじゃない! 説明がまだだ!」
鍛えている良武でも、二十歳前の若い男には敵わなかった。
追うのを諦めて、呼吸を整えた。するとみるみる相手の姿は小さくなり、消えてしまった。
「まったく……。何でここにいるんだ……。しかし、あの男どこかで見たような……。誰だったかな?」
良武は十八歳の姿をした息子が誰かわからなかった。
逃げ遂せた小太郎は久しぶりに父の顔を見ることができてうれしく思っていた。
向こうは全く自分に気付かなかったが、それはそれで仕方のないこと。ただ元気だとわかっただけでよかった。
しかし、先輩の言葉に驚いた。
「やっぱり、瀬川様と親戚なんだな」
「え?」
「比べたらよく似てた。悪かったな、この前疑って」
「いえ……」
家出した日、喜一朗に素性を疑われたことを思い出した。
そのせいで姉の機嫌が悪くなり、棄てられた。
嫌な思い出がよみがえった小太郎は、黙りこんだ。
食事の間もあまり話さず、早めに風呂に入って寝ることにした。
気付くと、風呂場でふと桶に映る自身の顔を見ていた。水に映る十八歳の顔は、確かに父良武によく似ていた。
「父上……」
そうつぶやく声も、似ていると改めて気付いた。さらに、身体つきも毎日のように鍛えているせいか父に近づいてきていた。
普段のひょろひょろが嫌いで、いつかはこうなりたいと願ってはいた。しかし、嫌われるとは思わなかった。
姉のイヤなものを見る顔が再び脳裏に浮かんだ。苦しくなったので、振り切ろうとすると今度はなぜか女の子の笑顔が浮かんで来た。
姉にいやがられた姿でも、彰子はいやがらなかった。いつも変わらない優しい眼で自分を見てくれる。
たまに手と手が触れても、身体が触れても、顔を少し赤らめるくらいで逃げたり叫んだり泣いたりはしない。
『良鷹さま……。』
自分の名を笑顔で呼ぶ彼女を思い出した小太郎は心があったかくなり、笑みがこぼれた。
「彰子ちゃん……」
彼女が心の支えになっていたことに、この時気がついた。
名を呼んでもらえると嬉しい、といった主と先輩の言葉の意味がわかった気がした。
また逢いたいと、心の底から思った。
その夜、影が政信を訪ねて来た。
国元からの報告だった。
「なに? 浮船が?」
「はい。疑っております。一度お戻りになった方が得策かと」
「……だな。瀬川にもバレたことだし。一度帰国する」
「では、明日」
「わかった」
三人は急遽帰国することになった。