われてもすえに…
【16】 悲哀
小姓二人は早速江戸行きの支度にとりかかることにした。
喜一朗は部屋でごそごそ支度している小太郎に声をかけた。
「今晩一旦仕度の為に家に帰るが、一緒に行くか?」
「……結構です。荷物はここで揃えられるので」
喜一朗は気になっていることがあった。
小太郎が全く家族の話をしなくなった。まだまだ子供っぽいところが多いが、なるべく出さないように気を付けている様子が目に見えてわかるようになって来ていた。
何かあったに違いないと思ってはいたが、聞き出せずに終わっていた。
しかし、その場で思い切って聞くことにした。
「……あのな、余計なお世話かも知れんがお前、最近ちゃんと家に帰ったか?」
「はい」
「そうか。ならいいが……」
未だ気になる様子だったが、あまりにしつこい詮索はなどしたくはなかった喜一朗はそこで止め、一人屋敷を後にした。
一人小姓部屋に残った小太郎だったが、一通り支度を終えると、ぼーっと部屋の中を眺めた。
ほとんどの物が無くなった部屋、これと同じ光景を見たことをぼんやりと思いだしていた。
それは、家出をする際に見た自分の部屋だった。
「母上、元気かな。みんなは、元気かな……。姉……やめとこ」
『家に帰る』と言った喜一朗がうらやましかった。帰る場所がある、それがうらやましくてたまらなかった。
家に帰れば家族が出迎えてくれる。毒見などしなくてもいい暖かい食事が出される。
そんな場所がかつて自分にもあったことが嘘だったかのような寂しい日々に、小太郎は押しつぶされそうだった。
早く江戸へ向かい、現実逃避をしてみたかった。家ではない所に自分の居場所を見つけたかった。
今では、小太郎の居場所は小姓部屋と城が小太郎の居場所。
しかし、休みの日で喜一朗と日にちがずれた日は小姓部屋には居られなかった。
家に帰らないことがバレる。しかたなく小太郎は考えた。そして考えた末、城の中の書庫に『勉強』ということで泊めてもらうことにした。
もちろん、その中の本を手当たりしだい読み耽り、気になったこと、わからないことは書き写して休みをつぶした。
また、そんなことばかりしていると鬱憤が貯まる。そこで暇な藩士が集まる道場に向かい、稽古を付けてもらった。
若い藩士から老練の藩士まで様々な男たちを相手に剣術、槍術、柔術の稽古をした。
皆、小太郎のやる気に感心し、へとへとになるまで稽古をつけてくれた。
その『修行』のおかげか、小太郎は日に日に強くなり、知識も増えて行った。
誰もが目指す『文武両道』を本気で追及しようとしていた。
一方の喜一朗は帰宅をし、一式荷物を整えた。
しかし、草鞋の予備が無いことに気が付いた。
女中を介せば何か感づかれる。そう思った喜一朗は自分で買い物に行くことにした。
下男も連れず、一人で夕暮れの街を歩いた。
今だ通りは賑やかで、人の行く来も盛んだった。
そこで、喜一郎は瀬川家の者に出くわした。初音と絢女が下男の仁助を引き連れていた。
どうやら帰り道らしく、大きな荷物をその下男に持たせていた。
声をかけると、初音は笑顔で挨拶を返した。
「あら、喜一朗殿。お久しぶりでございます」
「御母上様、絢女殿。お揃いで。お買い物帰りですか?」
今度は絢女がうれしそうに喜一朗に微笑んだ。
久しぶりに逢えてうれしいという感情が目に見えていた。
「はい。あの、喜一朗さまは今日からお休みですか?」
「残念ながら、休みではないのです。ちょっと次の休みは何時になるか分からないので、買い出しにと思いまして」
絢女は、喜一朗が暇だったら家に呼ぼうと思っていたが、仕事で忙しいと聞くとすぐにあきらめた。
代りに、初音が話に入ってきた。
内容は、小太郎についてだった。
「そんなに忙しいのですね。……良鷹はどうですか? 何事もなく仕事をしていますか?」
不安そうな表情を浮かべる初音に、喜一朗は感づいた。
小姓部屋でうっすら感じた不安は的中した。
「あの、やはり帰宅してないのですか?」
「……はい。残念ながら一度も。文もよこさないので心配で」
先ほどよりさらに不安げな表情の初音に、喜一朗は申し訳なさを感じた。
ただでさえ、一家の主の良武が留守の家を守る責任がある。それなのに、甥の心配までしなければならない、さらには小太郎まで……。
そう信じて疑わない喜一朗はすぐさま頭を下げ、彼女に詫びた。
「……気付きませんで申しわけありませぬ」
「いえ。頭をあげてください。その代りにと言ってはなんですが……。よろしければわたくしの文を良鷹に渡してはくれませんか?」
「はい。喜んで。文は?」
「ささっと書くので、茶屋にでも入りましょう。ね、絢女」
「え?……はい」
絢女はずっと二人の話を聞いていたが、何も言わず黙りこくっていた。
心に引っ掛かることがあり、何も言えなかった。
無事喜一朗に文を渡した後、母子は家に着いた。
荷物を下ろすと、下男の仁助はそっと主にうかがった。
「奥様、若は、帰って来ないのでしょうか?」
「……心配掛けさせてごめんなさいね。返ってくるはずよ。絶対に」
「信じてよろしいですか?」
「えぇ。気長に待ってあげて。必ず帰って来させるから」
「はい」
初音は下男下女に心配されるほど、慕われ可愛がられていた息子が不憫でならなくなった。
そこで、元服してから息子を一度も抱きしめていない事に気がついた。まして、その後すぐに十八の姿になった大きな息子を抱きしめようとはしなかった。
その申し訳なさに、初音の胸はいっぱいになり、家出してしまった息子を抱きしめ、慰めたい気持を
抑えなければいけなくなった。
しかし、その初音の傍では淡々と縫物をする娘、絢女がいた。
その姿を目にした初音は、どうしてそうも平気でいられるのか、疑問と同時に苛立ちが湧き出した。
「……絢女、どうするの?」
「なにがです?」
縫いもに執心の様子の娘に、初音は怒りさえも覚え始めた。
「わからないの?あなたがあんなこと言うから。小太郎は……」
「知りません」
冷たく言い放った娘を初音は凝視した。
その顔は、本当にどうでもいいといった表情だった。
「……知らないって、何でそう言うこと言うの?」
「あんなの、そのうち泣いて帰ってくるでしょう。そっとしておけばいいでしょう?」
この言葉に、とうとう初音は我慢が出来なくなった。
普段は声を娘にも息子にも荒げない初音が、猛烈な勢いで怒りはじめた。
「いい加減になさい! たった一人の弟でしょう? そっとしておくなどと、貴女は無視してるじゃないの!?」
あまりに突然なことで、絢女は驚き縫いもをする手を止めた。
声を聞きつけた下女たちがわらわらと走り寄ってきたが、初音が睨むと、蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。
それだけ初音の怒りは凄まじかった。
「なんであんなこと言ったの!? あの子はあなたに嫌われたと思って逃げ出したのよ! 二度と帰って来なかったらどうするの!?」
あまりの勢いに怖気づいた絢女はうつむいて、母の怒りが収まるのをただ待とうと思った。