アジアの夜
Episode.9
日本人専用の高層マンション。君の話によると、何社かの日本企業の出張社員が共同で利用しているという。
「私にとっては贅沢すぎる鳥籠だわ」
ライトを落とした、だだっ広くて生活感がまるでない室内。家事はすべて旦那の会社が雇った現地のメイドがしてくれるという。この整然とした広い空間に、不在がちの旦那を待ちわびて独り過ごす君の姿を、今はまざまざと想像できる。
「こちらにどうぞ」
シャワーを浴びてタオルを腰に巻いた僕は恐る恐る君が待つ寝室のドアを開ける。先にシャワーを済ませ、バスローブを着てバルコニーに立つ君の、肩に乱れた濡れ髪の香りが室内にむせかえる。
「綺麗よね?」
君の隣に並んで開け放したバルコニーから見下ろす夜の街は雑多で醜悪で、それでも毒々しいネオンと眩い輝きが混在していて僕が未だかつて見たこともないほどの美しさだった。
「ここに来たばかりの時はこうやって毎晩二人で夜景を楽しんだのよ。綺麗だねって肩を抱いてくれて。嬉しかった。こんな素敵な時間がずっとずっと永遠に続くものだと思っていたのにね、その時は」
甘い香りの濃度が強くなる。彼女はそっと僕の胸に顔を埋めた。
「きっとあなたのご両親もそう思っていたはずよ。二人一緒の素敵な時間はずっと永遠に続くものだと……でもね、少しはわかってあげて。現実はそううまくいかないってことも」
「……大人って勝手だ」
「そうだね……ほんとそうだよね。ほんとに勝手すぎるよね……」
か細くなる君の声。僕は震える両手で君の頬を挟んで僕の胸からそっと引き離す。黒いふたつの瞳は涙を湛え今にもこぼれそうに揺れている。
「お互い同じ景色を見ていると思っていたのに、あの人は実は違った景色を見ていたっていうことがわかって……」
「だから淋しいの? だから……」
こうやって独りの夜はいつも誰かを誘っているの?
という僕の言葉は彼女の唇で塞がれ紡ぐことができなかった。強く首に巻きつく君の細い両腕。激しく挑むように僕を求める君の熱い舌。
きっと僕だけじゃないんだ。
ただ待ち続けるだけのひとりきりの夜。
孤独に耐えきれなくて街を彷徨ってこうやって孤独の片割れを見つけてきて。
君は虚しく淋しさを紛らわす。
「初めて?」
無言で頷く僕の火照る身体をもうどうすることもできない。弄ばれていてもかまわない。たとえ一時でも君と僕の淋しさが紛れるならそれでもいいよ。
君の手が明らかに欲望を露わにして僕の腰のタオルを静かに取り去った。さぐる手が滾る僕を優しく包み込んだ時、僕は哀しくやるせない未知の領域に一歩足を踏み入れた。
君に僕の名前を教えていない。
僕も君の名前を訊いていない。
そんなことはほんの些細なことだと知った。
重ねる肌の熱さの分だけ、喘ぐ吐息の数だけ、僕たちの淋しさが溶けて消えてゆく。未だかつてないほどの快感の波に翻弄されながら僕の上にいる君を見上げると、その滑らかな二つの黒い瞳から涙がはらはらとこぼれ落ちた。