アジアの夜
Episode.10
「将人! 将人!」
肩を強く揺すられ、僕ははっと顔を上げた。正面には見なれた両親の顔。
「良かった……まさかこんなところでフラフラしていたなんて……一体どこに行ってたのよ!」
「ここは……」
「ここはって……さっきまで一緒にいたバザールじゃない。気がついたらあなたいなくなっていたから慌てたわよ。お父さんとあちこち探しまわって、現地の人に訊いても言葉が通じないしどうしようかと思って……もう少し探していなかったら警察に行こうと思っていたところだったのよ」
脳内にうっすらと膜が張ったようにぼんやりしている。首を回して辺りを見回すと、そこは例の路地裏。ヒステリックにわめく母親の顔がまるで他人のように見える。
全部夢だった?
あの時ここで男に襲われて気を失って、君に助けられて……あの部屋は?
朦朧として、思考がてんでまとまらない。
「まあ、いいじゃないか。無事見つかったことだし。お、おまえ、ここどうしたんだ?」
父親の太い指が僕の頬を撫でる。
「切り傷か? でもたいしたことはなさそうだな」
──夢じゃない。
君は確かにいた。僕とあの部屋にいたんだ。
「よくないわ! そうやってあなたはいつもいつも重要なことをうやむやにするから! 将人、とりあえずすぐ病院にいきましょう」
「またそんな……今すぐじゃなくてもいいじゃないか。様子をみて明日にしたら……」
「何を言ってるの?」
またも争い始めたふたりを目の前にしてぼんやりと君の言葉を思いだす。
──お互い同じ景色を見ていると思っていたのに、あの人は実は違った景色を見ていたっていうことがわかって──
ああ、このふたりもかつては君と君の旦那のように同じ景色を見て感動した時があったに違いない。だけど、時を経るにつれ互いの見える景色がまったく違ってきてしまったのだろう。夫婦だからって家族だからって必ずしも同じ景色を見ているわけでは決してないんだ。
哀しいけれど今の僕に、別れる二人をどうする事も出来ない。出来るのは二人の離婚という現実をしっかりと受け止めるだけ。そして自分だけが見ることのできる新しい景色を探し続けることだけだ。
あの胸がむかつくような悪臭に僕はふっと我にかえった。猥雑なバザールの臭い。生きている人間の臭い。
諍う両親をそのままに僕は踵を返して歩きだす。
君は今でも独り彷徨っているのだろうか。出口の見えない混沌とした孤独と寂寥の中を。
僕は君にとって一時の相手。それを狡いと責めることはできない、したくない。僕と同じ孤独と淋しさを共有したあの濃密なぬくもりが、今更ながらやるせなく愛おしい。
熱帯の国が見せた一夜の幻想。
僕はきっと忘れない。
そして折に触れ思い出すだろう。
孤独に耐えきれなくなった瞬間、淋しさに打ちひしがれたその時に。
夢とも現ともつかないまやかしの幻の君を。僕にとってかけがえのないアジアの夜を。
了
完結です。
長々とお読みくださり、ありがとうございました。