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たかべちかのり
たかべちかのり
novelistID. 692
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幸の腕

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高校を卒業して、大学生になってから幸恵とは疎遠になっていった、
大学の友人でリストカッターはいなかった。
幸恵のこともだんだんと考えなくなっていた。
否、考えないようにしていた。
怖かった。
会ってどんな顔をすればいいのか、何を話せばいいのかわからなくなっていた。
だから幸恵と再会したのは、本当に偶然だった。
大学帰りに駅のホームに降りれば、電車を待つ幸恵の姿があった。
思わず声をかければ、幸恵も久しぶり、と言った。
その腕には、小さな小さな赤ん坊。
「いつ生まれたの?」
「4か月前」
「かわいい。抱いてもいい?」
「うん。まだ人見知りしないから、大丈夫」
そっと幸恵から赤ん坊を抱き上げた。
軽い。
熱い。
乳臭い。
感じたことはたくさんあった。
けれど、小さな命を抱いた不思議な感動の方がより心を満たして、私はしばらく黙りこんで赤ん坊を見つめた。
「…あの彼氏との?」
「そう」
「別れると思ってた」
「私も。でもこの子が生まれてからね、大変なんだけど、楽しくて」
ふふ、と、幸恵は昔では考えられないほど綺麗な笑みを浮かべた。
私は幸恵の手首をちらりと見た。
そこには赤黒い後も真新しい赤い線もなかった。
「もう、切ってないんだね」
私が言えば、幸恵はうん、と言った。
「妊娠してからはやってない。煙草は、吸いたいんだけど我慢してる」
苦笑しているが、とても幸せそうな顔。
恋人も先生も、私も作れなかった顔。
くやしいような、うれしいような、妙な気もちになった。
「この子の名前は?」
「かいな」
「かいな? 腕のこと?」
「そう。その腕(かいな)で、誰かを支えることができますようにって。漢字じゃかわいくないでしょう?」
幸恵の乗る電車が来て、私はかいなを返した。
彼女は電車の窓越しにかいなの手を振ってくれた。
幸恵を救ったのは。
恋人でも友人でも臨床心理士でもなく。
笑い泣きながら彼女を全身で求めるひとつの生命だった。
その名の通り、生まれた時から彼女を支えていた。
あの小さな柔らかい腕で。

彼女の名前は「幸恵」と言う。
その名に相応しく幸せな日々を送っているかと考えると、今は疑問の余地はない。
作品名:幸の腕 作家名:たかべちかのり