幸の腕
高校を卒業して、大学生になってから幸恵とは疎遠になっていった、
大学の友人でリストカッターはいなかった。
幸恵のこともだんだんと考えなくなっていた。
否、考えないようにしていた。
怖かった。
会ってどんな顔をすればいいのか、何を話せばいいのかわからなくなっていた。
だから幸恵と再会したのは、本当に偶然だった。
大学帰りに駅のホームに降りれば、電車を待つ幸恵の姿があった。
思わず声をかければ、幸恵も久しぶり、と言った。
その腕には、小さな小さな赤ん坊。
「いつ生まれたの?」
「4か月前」
「かわいい。抱いてもいい?」
「うん。まだ人見知りしないから、大丈夫」
そっと幸恵から赤ん坊を抱き上げた。
軽い。
熱い。
乳臭い。
感じたことはたくさんあった。
けれど、小さな命を抱いた不思議な感動の方がより心を満たして、私はしばらく黙りこんで赤ん坊を見つめた。
「…あの彼氏との?」
「そう」
「別れると思ってた」
「私も。でもこの子が生まれてからね、大変なんだけど、楽しくて」
ふふ、と、幸恵は昔では考えられないほど綺麗な笑みを浮かべた。
私は幸恵の手首をちらりと見た。
そこには赤黒い後も真新しい赤い線もなかった。
「もう、切ってないんだね」
私が言えば、幸恵はうん、と言った。
「妊娠してからはやってない。煙草は、吸いたいんだけど我慢してる」
苦笑しているが、とても幸せそうな顔。
恋人も先生も、私も作れなかった顔。
くやしいような、うれしいような、妙な気もちになった。
「この子の名前は?」
「かいな」
「かいな? 腕のこと?」
「そう。その腕(かいな)で、誰かを支えることができますようにって。漢字じゃかわいくないでしょう?」
幸恵の乗る電車が来て、私はかいなを返した。
彼女は電車の窓越しにかいなの手を振ってくれた。
幸恵を救ったのは。
恋人でも友人でも臨床心理士でもなく。
笑い泣きながら彼女を全身で求めるひとつの生命だった。
その名の通り、生まれた時から彼女を支えていた。
あの小さな柔らかい腕で。
彼女の名前は「幸恵」と言う。
その名に相応しく幸せな日々を送っているかと考えると、今は疑問の余地はない。