幸の腕
彼女の名前は「幸恵」と言う。
その名に相応しく幸せな日々を送っているかと考えると、今は疑問である。
彼女は、リストカットをしていた。
リストカットは伝染する。
彼女から始まって、共通の友人たちは手首を切りはじめた。
中には幸恵に付き合って腕を切っている友人もいた。
私は、やらなかった。
単純に痛いのが嫌だったからだ。
離れていく友人もいたが、私は幸恵たちと友達だった。
「腕で切るところがなくなったから、足首にしてみた」
そう言って、幸恵は足首を見せてくれた。
足首には真新しい赤い線がいくつか走っていた。
幸恵の手首は、もうすっかり赤黒くなっていた。
私は痛いのが嫌いだ。
だから、幸恵の傷を見るといつも胸がざわざわした。
それでも頭の方はやけに冷めていた。
「痛そう」
「痛いよ」
私は現状をどうにかできるなんて思っていなかった。
どうにかしたい、と思ったことはもちろんある。
けれど一度それをしようとして、無理だと思い知った。
例えるなら、崖から落ちようとしている人の腕を掴んで、その体重を支えきれずに共に落ちるような。
今の私では力がなさすぎる。
だから私は、崖の上で彼女の傍から離れないことを選んだ。
それから幸恵は心療内科に数年通っていた。
恋人や、友人や、病院の先生や。
様々な人が幸恵をどうにかしたいとがんばっていた。
けれど誰もうまくいかなかった。
年月ばかりが過ぎて行った。