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ナガイアツコ
ナガイアツコ
novelistID. 38691
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異常気象、私は水の底で揺らめいた

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大学の図書館へ出かけて帰ってきた。
もう夕方だというのに、熱帯植物園の温室の中にいるかのような暑さだ。

アパートの階段をカンカンカンと上り、
部屋のドアの新聞受けに入れられた夕刊を抜き取る。
第一面には「異常気象、世界で被害」という大きな見出しが出ていた。
欧州は冷夏でアジアは大雨と干ばつに見舞われているという。

そういえば今朝早く、この辺りにもスコールのような大雨が降った。
雨雲はあっという間に去っていったのだけれど、
地面から立ち上る水蒸気が、都内の大気を一日中蒸し暑さの中に浸した。

私は鍵をまわしてドアを開け、部屋の中へ入った。
鉄筋コンクリートの小さなアパートは、
雨戸を閉め切っていたので、
室内にこもった熱気がむっとして息苦しい。

空気を入れ替えるために雨戸と窓を開けると、
それまで真っ暗だった部屋の中に、
落ちかけた太陽の長い光がうっすらと差し込んだ。
その光と一緒に、外の生温く湿った空気も入ってくる。

置きっ放しにしていたフェイスタオルで首筋の汗を拭い、
洗面所に向かった。
蛇口をひねると、やはり生温い水が出てきた。
流れ出る水にしばらく両手を浸し続ける。
すると徐々に水温が低くなってきた。
ひやりとして気持ちがいい。

蛇口の水は、キラキラ輝きながら私の両手の甲に落下し、
そこから手の輪郭に沿って洗面台に流れ落ち、
最後には、排水溝の丸い穴の中へと吸い込まれていく。
ぐるぐると渦を巻きながら。

ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる

次々と吸い込まれていく水の流れを見ているうちに、
いつの間にか私の意識も、水と一緒に、するすると、
排水溝の穴へと吸い込まれてしまった。

ぐるぐる、ぐるぐる・・
するする、するする・・・


一瞬の暗闇を抜け、
気がつけば、私はアパートの上空を泳いでいた。


なぜだか街の全てが水の中に浸っている。
私のアパートも、大家さんの家も、いつも買い物するコンビニも、
見慣れた風景の何もかもが、薄青色の水の底にあった。

北極の氷が溶けてしまったのだろうか?
眼下に広がる世界を見渡してみるが、私以外、誰もいない。
いつもなら車が頻繁に行き交っている駒沢通りも空っぽだ。

なんだかわけが分からないままに、
私は水を蹴って、すいすいと泳ぎ進む。
水の中だというのにちっとも苦しくない。

海を泳ぐ魚は、きっとこんなふうなんだろうな、なんて考えながら、
東横線の線路を目印に渋谷の街へと泳ぎ進んだ。
途中、歩道橋の下をくぐってみたり、信号機に腰掛けて休んでみたりもした。
まるで、手の込んだ水槽の中を泳いでいるようだった。

あちこち道草しながら、ようやく渋谷駅に到着した。
人っ子ひとりいないハチ公前の交差点。なんだか奇妙な光景だ。

向こうの方に東京タワーが見えたので、行ってみることにした。
直線距離だと、案外あっというまに着いてしまう。
私はタワーのてっぺん目がけてぐんぐん上昇する。地上333メートル。
先端に伸びている避雷針を握りしめ、
足をぱたぱたさせながら360度ぐるりと回転してみた。

東京のまんなかでぐるぐるぐるぐる。
新宿の高層ビルも見えるし、お台場のレインボーブリッジも見える。

楽しくて、2回、3回と、なんども回転した。
最後には目が回って、避雷針から手を離した。
反動で身体がゆっくりと投げ出される。

そうして、地上を背にしてゆらゆらと、
流れるままに東京の上空を漂った。

遠くから差し込む光が、目を閉じても、瞼の内側まで満ちあふれる。

太陽の光、生命の源。

私は、ふと、思った。
この先に空はあるんだろうか?
この水の世界はどこまで続いているんだろう?

起き上がって水面を確かめに行こうかと一瞬考えた。
だけど、すぐに思いとどまった。

もし、水の世界は果てしなく続き、
どこまでいっても終わりがなかったらどうする?

嫌な不安感が胸の中にもやもやと広がり始める。

そうだ、そろそろ家に帰らなきゃ、と私は思ったが、
次の瞬間、はっとして全身がこわばった。
家に帰って、いったい私は何をするというのだろう?

水の底に沈んだアパート、
ひとりぼっちの小さな部屋。

誰もいない、
この世界には誰もいないのだ。


広い世界に、たった一人。


私はいまや恐怖に変わった不安に震えながら、
とても大切なことを思い出した。

あの人は?
あの人はどうしてるだろうか?

彼が私をおいてどこかに行ってしまうなんてあり得ない。
きっと、私の帰りを待ってくれているはずだ。

私は急いで来た道を泳いで帰る。

見慣れた街、私のアパート、
そして、そこから100mと離れていない彼のマンション。

ぶくぶくと息を切らしながら2階のベランダに泳ぎ着く。

ベランダはいつものようにたくさんのハーブで埋め尽くされていた。
彼の育てている花梨の木の葉も水中で気持ち良さそうにそよいでいる。
きっと彼は中にいるはずだ。
ガラス戸は開いていたので、私はブラインドを持ち上げて中へ入った。


部屋には誰もいなかった。


二人掛けのソファも、彼の仕事机も、端が破れた椅子もちゃんとあるのに、
パソコンやモニタもいつも通りの場所にちゃんと収まっているのに、

なのに、彼だけがいない。

ベッドルームも覗いたし、お風呂もトイレも、全部確かめた、
だけど彼はどこにもいなかった。

底知れない絶望感にうなだれ、私はリビングへ戻った。
本棚には彼の気に入っていた写真集がいつも通り並んでいた。
その横には、私が彼の誕生日にプレゼントした画集もあった。
私はそれを抜き出して、頁を開く。

けれども開いたその瞬間、
すっかり脆くなっていたその本は、
真ん中からばらばらと無残に崩れ落ちてしまった。

全ての頁が粉々になって水中に漂う。

かき集めようとしたが、触れればその度に細かく砕け、
指の間をすり抜けてしまうだけだった。