バスに乗って
ひょっとして夢だったんじゃないか。都合のいい考えが浮かぶが、すぐに打ち消される。さっきまで彼が腰かけていたシートの背もたれに、まだ新しい水滴がいくつか乗っているのを発見したからだ。
「ごめんね」と私はつぶやく。「わざわざ迎えにきてくれたのに。ごめんね」
責任を半分しか果たせなくて。いや、半分だけなら、もはや果たせたとはいえないのか。ほんとうなら、私はここにいてはいけないのだ。私は彼とともに、バスを降りなければならなかった。そしていつかみたいに手をつないで、どうにかこうにか山を下って、家に帰りつかねばならなかった。
でもよかった、と思ってしまうのは、身勝手だろうか。……うん、身勝手だ。彼は立派に成長して、私よりずっと背も高くなって。私はそれだけでうれしい、満足だけど、たぶん彼はそうじゃない。彼はそんなこと、望んじゃいなかったのだろう。思いつめて、やつれて、それでわざわざ迎えにきてくれたのだ。それでも私は断った。もちろん断りたくはなかったけど、どうしようもない。私はここから出られない。不可能なのだ。空から降る雨が地上に達して弾けるのと同じに、それは原理。覆すことはできない。だから責められるべきは、過去の私だ。彼が幸せになるかどうかではなく、ただ自分の責任を果たすことだけを考えた私。そして中途半端に成功してしまった、失敗してしまった私。やるなら完ぺきにやり遂げなければならなかったのに。
そういうわけで、いまの私の願いはひとつだ。彼が私のことを、一刻もはやく忘れてくれますように。彼には彼の幸せが、私には私の幸せがある。忘れられたからって恨んだりしない、むしろそれこそが、私の本望。
そのとき、外を通り過ぎる景色のなかに、私は彼を見つける。服装や表情があまりにも変わっているので一瞬誰だかわからなかったが、たしかに彼だ(ちなみに服装は真っ白なカッターシャツにグレーのズボン。あ、灰色はいっしょか。表情は、微笑)。あのトルコ石の瞳、まちがいない。彼は制服姿の、髪の短い女の子と手をつないで、光と水の街路を歩いていく。私とは逆の方向に。
「それでいいんだよ」と私はつぶやく。つぶやく。
私の世界から彼は消える。すべてが元通りになる。
バスの窓から町を眺めている。
日の光のなかを、雨がふりそそいでくる。人はいない。誰も、誰もいない。町だけが静かに横たわり息をしている。
私はかすかな振動のなかで、幸福な眠りにつく。今度は、認めよう。これは眠りだ。私が意図的に引き寄せた暗闇ではなく、自然に訪れた、睡眠。秋のあとに冬がくるように。そしていつか目覚めるだろう。冬のあとに春がくるように。
そのときにはなにかしら、すてきな出会いがあればいいなと思う。
少年ははっとふりかえる。
「どうしたの?」
隣の少女が尋ねる。
「ねえ、いま、バスが通らなかった?」
「通ったけど、それがなに?」
少年は無言で指さした。
少女が目を細める。長く伸びる道の上には、陽炎だけがゆらめいている。
「あれ……?」少女は首をかしげる。「どこ行ったんだろうね。曲がるとこなんて――わっ」
少女が転ぶ。水たまりに尻もちをついて、制服がびしょ濡れになる。「やっちゃったー」と、少女は頭をかいている。
少年は呆けたようにそんな彼女を見つめながら、
「お姉ちゃん」
小さな声でつぶやく。誰にも聞きとれないほど小さな声で。
唐突に、少年は言う。
「結婚しよう」
手が差しだされる。少年から、少女へ。
「え……?」
差しだされた手を見つめて、少女が声をもらす。
「ぼくたち、大人になったら結婚するんだ。子どもは二人、男の子と女の子、ひとりずつがいい。それで、休日には、どこか遠くへでかけよう。家族みんなで、バスに乗って」
見おろす少年と、見あげる少女。
あたたかさと涼しさが同居した世界のなかで、それは一枚の絵のように見える。
ぴったりと、かっちりと、完結したもののように。
けれども、ふたりは知っている。
道を歩きはじめるのはこれからだ、と。
少女が手を伸ばし、少年がそれを握る。
少女は立ち上がる。
そこで。
少年はふりかえる。
ふりかえってしまう。
遠く向こうの空に、虹がかかっている。
虹の下をくぐりぬけていく、一台のバスの姿を、少年は思い描く。
ふたつの世界の狭間に立っている。
いつの日か少年は、――いずれにせよ、それはだいぶ先の話になるだろうが――旅をするだろう。バスに乗って。
そのとき隣に座っているのは、誰だろうか?
見届ける者はいない。
少年は歩きだす。
見届ける者は、いない。