バスに乗って
バスの窓から町を眺めている。
日の光のなかを、雨がふりそそいでくる。人はいない。誰も、誰もいない。町だけが静かに横たわり息をしている。
あたたかさと涼しさが同居した、それは一枚の絵のように見える。名画というよりは、絵の価値がわからない人が見て、ただなんとなく、「すてきな絵だな」と感じるような、そういうたぐいの。だからそれは、町そのものだ。未使用のスポンジみたいな感覚をもった人だけが、それをすてきだと感じることができる。私はそんな人のことを軽蔑し、そしてうらやむ。肩こりを意識しながら。……かたいなあ。
バスのなかは、外の「風景」をそっくりそのまま「温度」に移し換えたような肌触りに満ちている。あの風景とこの温度は、どうもぴったり一致しているみたいなのだ。実際の外の気温は、その風景にはそぐわない低さで、ちょっぴり肌寒かったりするのかもしれない。だとすれば、このバスに乗っているのは私だけだから、そのぴったりした幸福を味わうことができるのは、この町で、いやひょっとしたらこの世界で、私だけだということになる。超ラッキーじゃん私。
ふと、時計を見る。しかし時刻はわからない。針が一本しかないのだ。私は時刻のことなどすぐにどうでもよくなって、目の前の針について考えはじめる(思考の段階で、すでに要領の悪さが垣間見える。森より木を見てしまうタイプなのだ、私は。我ながら残念である)。これは長針だろうか、それとも短針だろうか。どっちつかずの長さみたいだけど。……いや、ちがう。きっと、長針か短針かなどというのは、互いに互いを比較することでしか決められないのだ。時計を見るたび無意識にその作業を行っているから、こうして片方がなくなり片方が残されたとき、どっちがどっちかわからなくなる。比べること。区別すること。私がほんとうに物そのものを目にすることができるのは、目に見える世界を失ってからなのかもしれない。
ということで目をつむってみる。光が消え、雨が消え、町が消え、バスが消え、時計が消え、私が消える。暗闇と振動と、空気のにおいが、世界の歯車となる。うん。なかなかにここちよい。
新しい世界に身をまかせていると、ふいっとなにかが見えてくる。音が聞こえてくる。これは――雨だ。さっきまで町にふりそそいでいた雨が、今度は私の世界にふりそそいでいるのだ。遊び人め。プレイボーイめ。女たらしめ。そっちがそういう態度をとるなら、こっちにも考えがあるぞ……観察、してやろうではないか。
ぴたり、と雨は静止し、ぐぐぐ、と私はそれに近づく。雨の一粒が拡大される。観察、観察。細い。スリムだ。ただしくびれはない。たぶん男だ(さっそくひとつ発見、雨粒には性別があった)。色は、半透明。なんだろう、黄色じゃなくて……琥珀色、というのか。ああそうだ、ひとたび気づいてしまえば、もうそれにしか見えない(だまし絵みたい)。これは琥珀の破片だ。ペンダントとか指輪とかそんなレベルじゃなしに、もっともっと細かくてほっそりした、純粋な欠片だ。
欠片のなかには、様々なものが浮かんでいる。はじめは真っ黒なごちゃごちゃに見えたそれらも、どんどん拡大するにつれ、ちゃんとかたちをもったものであることがわかってくる。赤いボール、青いボール、三輪車に、小さなプール。蛇口、ホース、敷石、草むら……これ、私の家の庭じゃないか? なつかしい。なつかしいものばかりだ。心が満たされた、休日の朝。そうだあの日も、庭には日の光と雨がいっしょにふりそそいでいて、両親に、ネリー(ペットの犬)に、私は守られていて。けど、それだけではなく、守るべき相手もいた。弟だ。三歩歩けば転んでしまう私の弟。目を離してはいけない。私は娘であると同時にお姉ちゃんで、つないだ手のその重さが、私の責任の重さだった。
責任。責任か。嫌な言葉。嫌な概念。関わり合いになりたくないもののひとつ。だけどあのころの私には、それは誇りで、喜びだった。そんな日もたしかにあったということを、私はいまやっと思いだした。琥珀のなかで。雨粒のなかで。ふと気づいたのだけれど、琥珀はたぶん、太陽の色だ。雨ははじめ、無色透明の水晶で、そこにはなんの感傷も感情も含まれてはいなかったのだろう。それが太陽を吸収して、というよりは太陽に溶かされた空気と私の気持ちの混合物みたいなものを吸収して、琥珀色に染まったのだ。つまりこれは、このほっそりした琥珀は、あの日の私の気持ち。だからこんなにも、ノスタルジアをおぼえるのだ。……ノスタルジア、といえば。それは故郷を離れているからこそ生起する感情だと思うのだが、はて、私はどこにいたんだっけ?…………
私はそこで、目を開く。自分がいかなる異郷にいるのかを再確認するため、能動的に開眼したのだ。けっしてバスが止まったからではないし、日の差しこむ向きが変わって顔に直射日光が当たったからでもない。断じてちがう。私は新しい世界を、自らの意思で目撃していたのだ。……寝てません。よだれとか、かいてません。寝顔を見せるのはまだ見ぬ旦那様だけと決めている。
いつのまにか、バスは町を出たようだ。山道のバス停。粗末な木のベンチ。
そこに、一人の男性が立っていた。
紺色の傘をさして、灰色のレインコートに身を包んだ彼は、やけに青白くて、背が高くて、トルコ石の目がぼんやり斜め上を見あげていた。歳は二十代前半くらいだろうか。もっと上かもしれないし、下かもしれない。どちらでも不思議じゃない。病人めいた痩躯は、年齢をあいまいにしてしまうものだ。
やがてバスはドアを開ける。男性が乗りこんでくる。ドアが閉まり、男性は私の三つ前の、右側の席に座る(私は左側に座っている)。出発進行。
バスが走りだしてしばらくしても、男性はレインコートのフードをかぶりっぱなしだった。私の目を避けようとしているみたいに。
フードを伝う雨粒は透明だ。男性の気持ちを吸いとっていない、まっさらな水晶だ。だから私には、彼の頭のなかが読みとれない。
いつ以来だろう、と私は考える。このバスに人が乗ってくるのは。運転手も乗客もいないこのバスの上に、私以外の人が存在しているのは。……思いだせないほど、昔のことか。
山道が続く。光のない、こんもりと暗い世界。木々が鬱蒼と生い茂っているのではなくて、単に厚い雲が広がっていて、それで日光が届かない。色のない雨が、太陽から切りはなされた孤独な雨が、しとしとと落ちては弾けていく。
冷たいなあ、暗いなあ。そう感じたのはたぶん錯覚じゃない。バスのなかの気温は、やや下がったようだった。まるであの人が寒さをつれてきたみたい。男性の後ろ頭に目を戻し、私は考える。
ふいに私は思いつく。この寂しい山道は、この人の心の世界なんじゃないか。私の世界からこの人の世界へと、バスは境界(そんなものがあるのならば)を越えたのでは。
ならば。ならば彼の心に触れることも可能なはずだ。この世界を切りとって、私のまぶたの裏にはりつけて、観察、拡大、観察。
私は目を閉じる。
目を開いたとき、そこに彼の姿はない。
窓の外に、見なれた町と、光と雨があるだけだ。私は手を握り、指先に這った血管をたしかめる。血はちゃんとめぐっている。
日の光のなかを、雨がふりそそいでくる。人はいない。誰も、誰もいない。町だけが静かに横たわり息をしている。
あたたかさと涼しさが同居した、それは一枚の絵のように見える。名画というよりは、絵の価値がわからない人が見て、ただなんとなく、「すてきな絵だな」と感じるような、そういうたぐいの。だからそれは、町そのものだ。未使用のスポンジみたいな感覚をもった人だけが、それをすてきだと感じることができる。私はそんな人のことを軽蔑し、そしてうらやむ。肩こりを意識しながら。……かたいなあ。
バスのなかは、外の「風景」をそっくりそのまま「温度」に移し換えたような肌触りに満ちている。あの風景とこの温度は、どうもぴったり一致しているみたいなのだ。実際の外の気温は、その風景にはそぐわない低さで、ちょっぴり肌寒かったりするのかもしれない。だとすれば、このバスに乗っているのは私だけだから、そのぴったりした幸福を味わうことができるのは、この町で、いやひょっとしたらこの世界で、私だけだということになる。超ラッキーじゃん私。
ふと、時計を見る。しかし時刻はわからない。針が一本しかないのだ。私は時刻のことなどすぐにどうでもよくなって、目の前の針について考えはじめる(思考の段階で、すでに要領の悪さが垣間見える。森より木を見てしまうタイプなのだ、私は。我ながら残念である)。これは長針だろうか、それとも短針だろうか。どっちつかずの長さみたいだけど。……いや、ちがう。きっと、長針か短針かなどというのは、互いに互いを比較することでしか決められないのだ。時計を見るたび無意識にその作業を行っているから、こうして片方がなくなり片方が残されたとき、どっちがどっちかわからなくなる。比べること。区別すること。私がほんとうに物そのものを目にすることができるのは、目に見える世界を失ってからなのかもしれない。
ということで目をつむってみる。光が消え、雨が消え、町が消え、バスが消え、時計が消え、私が消える。暗闇と振動と、空気のにおいが、世界の歯車となる。うん。なかなかにここちよい。
新しい世界に身をまかせていると、ふいっとなにかが見えてくる。音が聞こえてくる。これは――雨だ。さっきまで町にふりそそいでいた雨が、今度は私の世界にふりそそいでいるのだ。遊び人め。プレイボーイめ。女たらしめ。そっちがそういう態度をとるなら、こっちにも考えがあるぞ……観察、してやろうではないか。
ぴたり、と雨は静止し、ぐぐぐ、と私はそれに近づく。雨の一粒が拡大される。観察、観察。細い。スリムだ。ただしくびれはない。たぶん男だ(さっそくひとつ発見、雨粒には性別があった)。色は、半透明。なんだろう、黄色じゃなくて……琥珀色、というのか。ああそうだ、ひとたび気づいてしまえば、もうそれにしか見えない(だまし絵みたい)。これは琥珀の破片だ。ペンダントとか指輪とかそんなレベルじゃなしに、もっともっと細かくてほっそりした、純粋な欠片だ。
欠片のなかには、様々なものが浮かんでいる。はじめは真っ黒なごちゃごちゃに見えたそれらも、どんどん拡大するにつれ、ちゃんとかたちをもったものであることがわかってくる。赤いボール、青いボール、三輪車に、小さなプール。蛇口、ホース、敷石、草むら……これ、私の家の庭じゃないか? なつかしい。なつかしいものばかりだ。心が満たされた、休日の朝。そうだあの日も、庭には日の光と雨がいっしょにふりそそいでいて、両親に、ネリー(ペットの犬)に、私は守られていて。けど、それだけではなく、守るべき相手もいた。弟だ。三歩歩けば転んでしまう私の弟。目を離してはいけない。私は娘であると同時にお姉ちゃんで、つないだ手のその重さが、私の責任の重さだった。
責任。責任か。嫌な言葉。嫌な概念。関わり合いになりたくないもののひとつ。だけどあのころの私には、それは誇りで、喜びだった。そんな日もたしかにあったということを、私はいまやっと思いだした。琥珀のなかで。雨粒のなかで。ふと気づいたのだけれど、琥珀はたぶん、太陽の色だ。雨ははじめ、無色透明の水晶で、そこにはなんの感傷も感情も含まれてはいなかったのだろう。それが太陽を吸収して、というよりは太陽に溶かされた空気と私の気持ちの混合物みたいなものを吸収して、琥珀色に染まったのだ。つまりこれは、このほっそりした琥珀は、あの日の私の気持ち。だからこんなにも、ノスタルジアをおぼえるのだ。……ノスタルジア、といえば。それは故郷を離れているからこそ生起する感情だと思うのだが、はて、私はどこにいたんだっけ?…………
私はそこで、目を開く。自分がいかなる異郷にいるのかを再確認するため、能動的に開眼したのだ。けっしてバスが止まったからではないし、日の差しこむ向きが変わって顔に直射日光が当たったからでもない。断じてちがう。私は新しい世界を、自らの意思で目撃していたのだ。……寝てません。よだれとか、かいてません。寝顔を見せるのはまだ見ぬ旦那様だけと決めている。
いつのまにか、バスは町を出たようだ。山道のバス停。粗末な木のベンチ。
そこに、一人の男性が立っていた。
紺色の傘をさして、灰色のレインコートに身を包んだ彼は、やけに青白くて、背が高くて、トルコ石の目がぼんやり斜め上を見あげていた。歳は二十代前半くらいだろうか。もっと上かもしれないし、下かもしれない。どちらでも不思議じゃない。病人めいた痩躯は、年齢をあいまいにしてしまうものだ。
やがてバスはドアを開ける。男性が乗りこんでくる。ドアが閉まり、男性は私の三つ前の、右側の席に座る(私は左側に座っている)。出発進行。
バスが走りだしてしばらくしても、男性はレインコートのフードをかぶりっぱなしだった。私の目を避けようとしているみたいに。
フードを伝う雨粒は透明だ。男性の気持ちを吸いとっていない、まっさらな水晶だ。だから私には、彼の頭のなかが読みとれない。
いつ以来だろう、と私は考える。このバスに人が乗ってくるのは。運転手も乗客もいないこのバスの上に、私以外の人が存在しているのは。……思いだせないほど、昔のことか。
山道が続く。光のない、こんもりと暗い世界。木々が鬱蒼と生い茂っているのではなくて、単に厚い雲が広がっていて、それで日光が届かない。色のない雨が、太陽から切りはなされた孤独な雨が、しとしとと落ちては弾けていく。
冷たいなあ、暗いなあ。そう感じたのはたぶん錯覚じゃない。バスのなかの気温は、やや下がったようだった。まるであの人が寒さをつれてきたみたい。男性の後ろ頭に目を戻し、私は考える。
ふいに私は思いつく。この寂しい山道は、この人の心の世界なんじゃないか。私の世界からこの人の世界へと、バスは境界(そんなものがあるのならば)を越えたのでは。
ならば。ならば彼の心に触れることも可能なはずだ。この世界を切りとって、私のまぶたの裏にはりつけて、観察、拡大、観察。
私は目を閉じる。
目を開いたとき、そこに彼の姿はない。
窓の外に、見なれた町と、光と雨があるだけだ。私は手を握り、指先に這った血管をたしかめる。血はちゃんとめぐっている。