wish
目を開けて。見える風景は、毎年同じだった。
暮れていく空。並ぶ夜店。川沿いの道に立てられた笹竹と、行き交う人波。喧騒と笑い声。
涼風が吹き抜ける度に、笹の葉が擦れあって軽い音を立てる。あちこちに飾られた短冊が翻って、ひらひら、ひらひらと視界を彩る。
その一枚一枚に書かれた願い事のうち、叶うのは誰の、どんな願いなんだろう。何を書けば、何を願えば、叶うんだろう。
足音が聞こえた。ゆっくりと、重たい足音。周囲の浮き立った雰囲気に溶け込むことのできない調子の。視線を向けると、沙耶がすぐ隣に立っていた。橋の欄干に腰掛けたオレの横で、夕焼けの最後の赤を飲み込んでいく空を一心に見上げている。オレは沙耶の右の薬指から指輪がなくなっているのを、複雑な気分で見ていた。
「久しぶりじゃん、沙耶。元気にしてたか?」
沙耶は、オレの声には応えない。
「今日で十年だな。もういいからって、毎年言ってんのに」
沙耶の視線がゆっくりと動いて、夜空から橋の下を流れる水面に注がれる。沙耶はその波立つ流れを恨めしそうに睨んだ後、橋の欄干に置いた腕に顔をうずめて大きく息を吐いた。沙耶の手の中で、緑色の短冊がくしゃりと音を立てた。
「なに落ち込んでんだよ」
「ねえ、ナオ。私、ナオに…」
「何だよ。愛の告白なら、十年前に聞いたぞ」
「私、謝らなきゃいけないの」
「もういいって。おまえのせいじゃないんだ」
「ナオがいなくなったのは、私のせいなのに」
沙耶の声に涙が混じった。オレは口を閉ざして、噛み合わない会話を止めた。
「私、ずっとずっと忘れられなくて。だけどね…」
オレの言葉の代わりに、笹の葉が一斉に音を立てた。
驚いて顔を上げた沙耶の手から、短冊が舞い上がった。それは、突然吹いた強い風に運ばれて、静かに川面に舞い落ちた。丁寧な字で書かれた願いが、はっきりと読み取れた。
ナオが幸せになれますように、と。
「沙耶は、そればっかだな。そんなにオレが好きだったか?」
沙耶の願いは、いつもオレのことだった。去年も、一昨年も、その前も。ずっと。
けど、最初の願いは。十年前の沙耶の願いは、叶わなかった。叶えてやれなかった。
ナオとずっと一緒にいたい。
十七歳だった沙耶の願いは今でも覚えているけれど。滅茶苦茶嬉しかったことを、今でも覚えているけれど。
あの日、こんな風に。橋の欄干に腰掛けて。見上げた夜空。
星に、目が眩んだんだ。
たなばた祭りに行きたいと、そう言い出したのは沙耶の方で。
遠のいていく星空。
背中から水に落ちていく感覚。
ぜんぶ、覚えてる。
沙耶のせいじゃなかった。
苦しかった。
それでも、恨んじゃいなかった。
大好きだった。
一緒にいたかったのは、オレの方だ。
けど、気が付いたときにはもう遅かった。オレはここから動けなくなっていたし、沙耶はこの場所を避けるようになっていた。たなばた祭りの夜にだけ、沙耶は願い事をしに訪れて。奇しくもオレたちは、織り姫と彦星みたいな関係になっていたんだ。
それも、今日までだ。指輪の外れた沙耶の手を見て、悟った。
橋の向こう側に、沙耶を待ってる姿があった。
「沙耶。好きな奴ができたんだろ」
オレのことばかりを願った沙耶が、ちゃんと前へと進めるように。オレの願いは叶わなくても、せめて言葉が伝わるといい。
「沙耶。オレのことはもういいから、おまえは幸せになれ」
オレの願いに応えるように、葉擦れの音が辺りに響いた。