かくれんぼ
幽玄の洞
目を開けると、鍾乳洞の中だった。白亜の壁。冷たい空気。すぐ脇を流れる地下水。水底が、コバルトブルーに輝いている。
辺りが妙に明るいのは、鍾乳石や石筍が仄かな光を宿しているからだ。淡い光。重なって、重なって。ぼんやりと白壁を照らし出す。
「洞、か」
呟いた声があちこちに反響して、余韻を残す。
ふわり、と。
何かが目の前を過ぎった。反射的に手が出る。掴み取ったのは、薄紅色の花弁だった。桜。
ふわり、ふわり。
見上げても天井は高く、伸ばした指先は届かない。光は届かない。その暗がりの中から、花びらが舞い落ちる。
重みを感じさせないそれは、風のない空をゆっくりと漂い、地に落ちる。ひらひらと、こぼれるように。思わず、ため息が漏れる。
その時だった。
「さくら、きれい?」
声が響いた。快活な声音。はっきりと届く言葉。
振り向くと、女の子が一人。五歳くらいだろうか。口の両端を吊り上げた、楽しそうな笑顔。真っ白なワンピースが可愛らしい。
「こうすると、もっときれいだよ」
楽しそうに言うと、彼女は足元に散らばった花びらを小さな両手でかき集めた。それから、ゆっくりと水辺に近付く。
「危ない…」
止めようと手を伸ばした瞬間、少女の手から、花びらがこぼれた。
一瞬だけ宙を舞った桜は、音もなく青い水の上に降りる。そうして、輝くような青の上をたゆたいながら、どこかへ流れていく。
「ね。きれいでしょ?」
得意そうな口調で、幼い少女の声がした。
「うん。綺麗だ」
ピンク色の花びらはゆっくりと水の流れを辿り、やがて姿を消した。
「君、名前は?」
「あかり」
舞い落ちた桜を一枚ずつ拾いながら、少女が答えた。
「お兄ちゃんの名前は?」
「半(なかば)。森で俺のこと呼んだのは、君?」
くすくすと、楽しそうな笑い声が白亜の壁にこだました。
「私だけど、私じゃないの」
少女は水辺に座り込むと、拾ったばかりの花びらを一枚ずつ流し始めた。楽しそうに。
「私じゃないけど、私なの」
楽しそうな笑い声。響く。響く。
「あの頃の私は、いつだって笑っていました」
軽やかな笑い声が、突然、大人びたものに変わった。
「楽しくて笑い。嬉しくて笑い。それなのに」
澄んだ声。錫のような。
「どうして、人は変わるのでしょう」
誰かに、袖を引かれた気がした。五歳の少女の、笑顔が消える。
「どうして、笑顔を無くすのでしょう」
足がよろめく。コバルトブルーの水面が迫る。
「かくれんぼ、しよう。私を探して」
背中から、水に落ちた。コバルトの川。けれど、水は確かに透明だった。最後に見たのは、音もなく舞い散る桜色だった。