アーク_1-3
ベルは、息を呑んだ。
それは、炎だった。木々の影から噴き出した揺らめく炎が板状に収束し、波打つ刃を形作っていた。炎の刃だ。
音も無く、野鹿の首がずれ落ちた。彼は不思議そうに瞬きをしていた。自分の身に何が起こったか、認識出来ない……そんな顔をしていた。それがぼとりと落ちた時、彼はうめき声を上げる暇も無く、死んだ。
首の無い体から、大きく血飛沫が噴き出し、中空に弧を描いた。
飛沫が少し顔にかかり、その生温かさを感じる時になってようやく、ベルは息をすることを思い出した。
「何が……」
ベルが言いかけた時、それは木々の合間から姿を表した。
それは最初、黒い岩の塊か、冷え切ったマグマのように見えた。表面は石炭のような黒色で、棘のように鋭い突起が全体にあった。表面に無数に走るひび割れから、赤い光が溢れ出し、そこかしこから蒸気が上がっている。いや、それは"ひび割れ"ではなかった。それは"継ぎ目"だった。岩のように見えたのは、甲冑の装甲だった。
それは、人の形をしていた。黒騎士の甲冑を纏った、野生の熊と見紛うばかりの大きさの。人間でありえないことは、その異常な気配からすぐに分かる。低い、地鳴りのような唸り声が甲冑の隙間から響き、そのたびに漏れ出でる赤光が明滅する。右手に波打つ炎の剣を携えて立つその姿は、子供の頃に絵本で見た、魔女に仕える悪の騎士の姿そのものである。
「ま、魔獣か!」
パラスはベルの肩から飛び出すと、羽を大きく広げ、魔法を使おうとしたようだが、丸太のように太い魔物の腕になぎ倒され、地面に叩きつけられた。
魔物はゆっくりと首を動かし、ベルの方を睨んだ。
「うっ……」
魔物の目は、甲冑の闇の奥に隠れて見えなかったが、代わりに激しく光る赤い光が、明確な敵意を放っていた。
本能的に危険を察知したベルは、無意識のうちに後ずさりしたが、ぬかるみに震える足を取られて、尻餅をついてしまった。すぐに立ち上がろうとするも、思うように出来ず、その場でじたばたともがくだけしか出来ない。腰が抜けてしまっていたのだ。
魔物はゆっくりと剣を振り上げた。高々と振り上げられた炎の剣が、夕闇に浮かぶ月輪に重なる。天空の群雲を裂くかのように、剣の切先が月の頂点に達したとき、ベルは自らの死を予感した。
ふと、群雲の合間に、幾筋もの小さな光が走った。
雷光だ。
瞬く後に、その光が去ったとき、いつの間にか、月輪にもうひとつの影が浮かんでいた。
「であぁぁぁっ!」
影は背後から魔物を一撃すると、ベルと魔物の間に陣取った。
影の主は、青年の姿をしていた。紫白の法衣を身につけて、髪は金色に輝き、風に揺れるたびに光舞う。ベルからはその背しか見えないが、その美しさは、人間のそれとは思えない。間違いなく、天使族だ。
「人間じゃない……? 人型の魔獣なのか?」
謎の天使は、目の前の存在が魔物だと気付いたようだ。半身になって構えを取ると、拳を握り締めた。
「アーク、アークか!」
地面に落ちたパラスが、なんとか顔だけ上げていた。
「パラス、援護しろ!」
鎧の魔物が再び炎の剣を振るう。アークと呼ばれた青年は、腰に差した短刀を抜くと、その剣を受け止めた。青白い火花が散り、一瞬、森の中が昼のように明るくなった。
「槍よ!」
片羽を上げ、パラスが叫ぶと、地面から土の塊が噴出し、鎧の魔物を押しつぶした。
その隙に、天使アークは開いた手を天高く振り上げ、そして地面に向かって一息に振り下ろした。途端に天空から一筋の稲光が走り、鎧の魔物を直撃した。
至近距離の落雷で、視界が白転する。激しい光に、ベルは思わず目を閉じた。轟音で空気が文字通りビリビリと震えた。
衝撃で、魔物を押しつぶしていた土が吹き飛んだ。魔物の体から、黒い煙が上がり、肉の焼ける臭いが立ち込める。
アークは短刀を構えなおし、止めを刺すべく魔物に飛び掛かろうとしたが、次の瞬間、魔物の背から2つの炎が噴出した。炎は翼を形成して、魔物はそのまま夕空へ飛び去ってしまった。
「逃げた? 人型で、知能も高いのか?」
青白い月の中へ消える魔物の姿を、アークはいつまでも睨んでいた。
その美しい金髪が光とともにたなびく姿が、ベルの目に焼きついて離れなかった。