アーク_1-3
☆1-3
北へ向かってしばらく飛ぶと、首都近郊の森林地帯へと入って来る。
太陽が西へと沈みかける頃、ようやく森の入口へと辿り着いた。
ベルは首を回して開けた場所を探すと、ソージキを操作し、ゆっくりと下降した。地面近くで飛び降りた足が滑り、顔から着地してしまう。
「だ、大丈夫ですか?」
慌ててパラスが声を上げる。
ベルはむくっと起き上がると、ペッペっと土を吐いた。
「大丈夫なわけないでしょ! 乙女の柔肌がぁ!」
ベルはエプロンで顔をぬぐった。鏡を取り出して、顔に傷が出来ていないかチェックする。……大丈夫なようだ。
「まったく……あたしにゃドジっ娘属性は無いっての。一張羅が台無しじゃない!」
顔をぬぐっていたエプロンまでも泥で汚れていることに気付いて、ベルは顔をしかめた。
パラスは中空をぐるっと一周すると、ベルの眼前にハチドリの様に滞空した。
「まずはこの辺り一帯の掃除をしましょう」
パラスはそう言って首を傾げ、チチチと少し鳴いた。まるで小鳥そのものである。
「この辺り一帯って……」
絶句して、周囲を見回す。
見渡す限りの木、木……。当然か。木立の隙間から赤い夕日の色が滲み出て、まるで魔界の門のようにも見えてしまう。地面は草が伸び放題になっていて、掃除機の掛けようもない。木々の合間にちょろっと走る影が見えた。……あれはなんだろう、リスか何かだろうか。
風が吹いた。カラスがけたたましい泣き声をあげ、いっせいに飛び立つ。いかにもおどろおどろしい。
「――いや、無理でしょ。終わるわけないじゃない、こんなの」ベルは首を振った。「もう帰ろうよ。服も替えたいしさぁ」
「でも、今日の分のノルマが……」
「ノルマぁ?」思わず、真顔になる。「何よ、それ」
「魔法少女には一日の作業量が決められていて、それをクリアしないといけないんです。意味も無くサボると、叱られるだけじゃ済みませんよ。報奨だってもらえなくなるかもしれませんし、神の怒りに触れたらもっと恐ろしいことに……」
「おい、ちょっと待てよ、何なのそれは」
「ひいっ!」
「そういう事はもっと早く言いなさいよ!」空を指差して。「もう日も暮れちゃってきてるじゃん!」
朱色に染まる空の向こうに、藍色の夜とともに、青白く光る月が昇りはじめている。
「ベルさんがいけないんじゃないですかぁ〜! あちこち寄り道するからぁ〜!」
「あんただって止めなかったじゃないの!」
「そんなこと言ったってぇ〜!」
パラスが涙粒を撒き散らしながら叫んだ、ちょうどそのとき。
木立の影で、ガサガサと何かが蠢く音がした。
ベルとバラスは、しばらくその音がしたほうを見つめていた。
「――今の、なに?」
ベルの声はかすかに震えてしまっていた。
「わ、わかりませぇん……」
パラスに至っては、ほとんど泣き声である。
「ちょっと……やめてよ、熊とか、まさかトラとかじゃないでしょうね」
「トラはいないと思うんですけど……」
しばらくの間、耳を澄ましていても、耳の痛くなるような静寂だけが森の中を支配する。何の気配も感じない……いや逆に、気配が多すぎて分からないだけだろうか? 今しがた感じた動物の気配はやはり、息を殺して機会を待つ、肉食動物のそれだったのではないか? 次第に疑心暗鬼になり始める……。
アッハッハ、とベルは乾いた笑い声を上げた。
「ま、そういうことで! それじゃ、ちゃっちゃとやっちゃいましょうか!」
「そ……そうですねー!」
パラスも空元気で合わせた。
「で、これってどうやって使うのよ?」わざと明るく大きな声で言う。「あたしんち、ソージキなんかないから、使い方知らないのよねぇ」
ソージキの柄の部分にある、いくつかボタンのついた取っ手をガチャガチャと弄ってみる。
「さぁ……普通の魔法少女はホーキですからねぇ」
「おっ」いくつかボタンを押すと、にわかにソージキが唸りだした。どうやら電源スイッチだったらしい。「動いた、動いた」
ソージキはうなり声を上げて、地面の砂利を吸い込んでいる。ソージキの柄を押し引きしてみると、中でカラカラと小石がぶつかる音がする。ソージキをかけた跡は、特に変わったようにも思えない。強いて言えば、少し小石が減ったくらいか。
「うわこれ……地味〜」
かなり視覚的に訴えない作業風景である。老若男女の憧れの的である、かの魔法少女の仕事であるとは到底思えない。
パラスは、アンテナの付いた検知器のようなものを取り出し、表示される値を難しい顔をして睨んでいる。
「一応、回収は出来てるみたいですね。値が減っていってます。っていうより、すごい勢いで減ってます。さすが最新型ですね」
「ぜんぜん実感ないんだけど」
「いや、ホーキの何倍も効率がいいですよ、これは。少し移動しながらやってみましょう」
「なるほど」
ソージキを引きずりながら進んでいくと、前方の茂みで、またもやガサガサと音が鳴った。
ベルはソージキの電源を切った。
ソージキのうなり声が消えた森の中で、茂みの中からガサガサと何かが蠢く音だけが木霊する。
その蠢きの大きさからして、小動物ではありえない。
「――もう今日はやめましょっか?」
パラスが口火を切った。
「そうねぇ、あんまし暗いってのもアレだしねぇ」
茂みの向こうは闇につつまれているが、葉擦れの音は続いている。それは、次第に大きくなっていっているようだ。
「あっ!」パラスが突然大声を上げた。「ト、トラだ!」
「うっそ、マジ?」
「しま、しま模様がありました!」
「あんたさっき、いないって言ったじゃん!」
「いや、あの歩き方! 胴体見ましたもん、僕!」
茂みから離れるように、二人はゆっくりと後ずさりをした。
「なんでこんなトコにトラがいるのよっ!」
「わ、わかりませよ〜」
「あ!」茂みの闇の向こうで、なにかの縞模様が見えた気がした。「マジだ、トラだ! しま模様見えた!」
茂みの奥で、何かの動物の瞳が光る。
すでに、獣の息遣いが聞こえる距離まで、それは肉薄していた。
「ちょっと……来るわよ! どうするの!」
「こ、怖いです〜!」
パラスはベルの肩に止まると、体を摺り寄せてきた。
茂みの向こうの瞳の光が消え、一瞬の静寂があった後、一際大きな音を立てて、黒い影が茂みから飛び出してきた。
それを見たベルとパラスは、同時に声を上げた。
「あ!」
藪の中から出てきたのは、
「シカだ!」
大きな角を生やした、角のわりには小柄な鹿だった。
ベルとパラスは思わず顔を見合わせた。
鹿はのそのそと木々の合間を歩むと、頭を垂らし、草を食んだ。
微妙な空気が流れる。
二人は苦笑いして取り繕った。
「あっははは……シカでしたー」
野生の鹿は夕闇の中で、静かに草を食んでいる。
拍子抜けし、肩を落としてベルは言った。
「なにがトラよ、どこに縞模様があるってのよ」
「だって……ベルさんがトラじゃないかっていうから」
「あたしのせいだっての?」
「ひぃっ!」
「まったく……ビビって損したわよ」
ベルがそう言ったその瞬間、木々の合間から、赤い閃光が発した。
揺らめく赤い光は、鹿の首筋を撫でるように走ると、地面に突き刺さった。
北へ向かってしばらく飛ぶと、首都近郊の森林地帯へと入って来る。
太陽が西へと沈みかける頃、ようやく森の入口へと辿り着いた。
ベルは首を回して開けた場所を探すと、ソージキを操作し、ゆっくりと下降した。地面近くで飛び降りた足が滑り、顔から着地してしまう。
「だ、大丈夫ですか?」
慌ててパラスが声を上げる。
ベルはむくっと起き上がると、ペッペっと土を吐いた。
「大丈夫なわけないでしょ! 乙女の柔肌がぁ!」
ベルはエプロンで顔をぬぐった。鏡を取り出して、顔に傷が出来ていないかチェックする。……大丈夫なようだ。
「まったく……あたしにゃドジっ娘属性は無いっての。一張羅が台無しじゃない!」
顔をぬぐっていたエプロンまでも泥で汚れていることに気付いて、ベルは顔をしかめた。
パラスは中空をぐるっと一周すると、ベルの眼前にハチドリの様に滞空した。
「まずはこの辺り一帯の掃除をしましょう」
パラスはそう言って首を傾げ、チチチと少し鳴いた。まるで小鳥そのものである。
「この辺り一帯って……」
絶句して、周囲を見回す。
見渡す限りの木、木……。当然か。木立の隙間から赤い夕日の色が滲み出て、まるで魔界の門のようにも見えてしまう。地面は草が伸び放題になっていて、掃除機の掛けようもない。木々の合間にちょろっと走る影が見えた。……あれはなんだろう、リスか何かだろうか。
風が吹いた。カラスがけたたましい泣き声をあげ、いっせいに飛び立つ。いかにもおどろおどろしい。
「――いや、無理でしょ。終わるわけないじゃない、こんなの」ベルは首を振った。「もう帰ろうよ。服も替えたいしさぁ」
「でも、今日の分のノルマが……」
「ノルマぁ?」思わず、真顔になる。「何よ、それ」
「魔法少女には一日の作業量が決められていて、それをクリアしないといけないんです。意味も無くサボると、叱られるだけじゃ済みませんよ。報奨だってもらえなくなるかもしれませんし、神の怒りに触れたらもっと恐ろしいことに……」
「おい、ちょっと待てよ、何なのそれは」
「ひいっ!」
「そういう事はもっと早く言いなさいよ!」空を指差して。「もう日も暮れちゃってきてるじゃん!」
朱色に染まる空の向こうに、藍色の夜とともに、青白く光る月が昇りはじめている。
「ベルさんがいけないんじゃないですかぁ〜! あちこち寄り道するからぁ〜!」
「あんただって止めなかったじゃないの!」
「そんなこと言ったってぇ〜!」
パラスが涙粒を撒き散らしながら叫んだ、ちょうどそのとき。
木立の影で、ガサガサと何かが蠢く音がした。
ベルとバラスは、しばらくその音がしたほうを見つめていた。
「――今の、なに?」
ベルの声はかすかに震えてしまっていた。
「わ、わかりませぇん……」
パラスに至っては、ほとんど泣き声である。
「ちょっと……やめてよ、熊とか、まさかトラとかじゃないでしょうね」
「トラはいないと思うんですけど……」
しばらくの間、耳を澄ましていても、耳の痛くなるような静寂だけが森の中を支配する。何の気配も感じない……いや逆に、気配が多すぎて分からないだけだろうか? 今しがた感じた動物の気配はやはり、息を殺して機会を待つ、肉食動物のそれだったのではないか? 次第に疑心暗鬼になり始める……。
アッハッハ、とベルは乾いた笑い声を上げた。
「ま、そういうことで! それじゃ、ちゃっちゃとやっちゃいましょうか!」
「そ……そうですねー!」
パラスも空元気で合わせた。
「で、これってどうやって使うのよ?」わざと明るく大きな声で言う。「あたしんち、ソージキなんかないから、使い方知らないのよねぇ」
ソージキの柄の部分にある、いくつかボタンのついた取っ手をガチャガチャと弄ってみる。
「さぁ……普通の魔法少女はホーキですからねぇ」
「おっ」いくつかボタンを押すと、にわかにソージキが唸りだした。どうやら電源スイッチだったらしい。「動いた、動いた」
ソージキはうなり声を上げて、地面の砂利を吸い込んでいる。ソージキの柄を押し引きしてみると、中でカラカラと小石がぶつかる音がする。ソージキをかけた跡は、特に変わったようにも思えない。強いて言えば、少し小石が減ったくらいか。
「うわこれ……地味〜」
かなり視覚的に訴えない作業風景である。老若男女の憧れの的である、かの魔法少女の仕事であるとは到底思えない。
パラスは、アンテナの付いた検知器のようなものを取り出し、表示される値を難しい顔をして睨んでいる。
「一応、回収は出来てるみたいですね。値が減っていってます。っていうより、すごい勢いで減ってます。さすが最新型ですね」
「ぜんぜん実感ないんだけど」
「いや、ホーキの何倍も効率がいいですよ、これは。少し移動しながらやってみましょう」
「なるほど」
ソージキを引きずりながら進んでいくと、前方の茂みで、またもやガサガサと音が鳴った。
ベルはソージキの電源を切った。
ソージキのうなり声が消えた森の中で、茂みの中からガサガサと何かが蠢く音だけが木霊する。
その蠢きの大きさからして、小動物ではありえない。
「――もう今日はやめましょっか?」
パラスが口火を切った。
「そうねぇ、あんまし暗いってのもアレだしねぇ」
茂みの向こうは闇につつまれているが、葉擦れの音は続いている。それは、次第に大きくなっていっているようだ。
「あっ!」パラスが突然大声を上げた。「ト、トラだ!」
「うっそ、マジ?」
「しま、しま模様がありました!」
「あんたさっき、いないって言ったじゃん!」
「いや、あの歩き方! 胴体見ましたもん、僕!」
茂みから離れるように、二人はゆっくりと後ずさりをした。
「なんでこんなトコにトラがいるのよっ!」
「わ、わかりませよ〜」
「あ!」茂みの闇の向こうで、なにかの縞模様が見えた気がした。「マジだ、トラだ! しま模様見えた!」
茂みの奥で、何かの動物の瞳が光る。
すでに、獣の息遣いが聞こえる距離まで、それは肉薄していた。
「ちょっと……来るわよ! どうするの!」
「こ、怖いです〜!」
パラスはベルの肩に止まると、体を摺り寄せてきた。
茂みの向こうの瞳の光が消え、一瞬の静寂があった後、一際大きな音を立てて、黒い影が茂みから飛び出してきた。
それを見たベルとパラスは、同時に声を上げた。
「あ!」
藪の中から出てきたのは、
「シカだ!」
大きな角を生やした、角のわりには小柄な鹿だった。
ベルとパラスは思わず顔を見合わせた。
鹿はのそのそと木々の合間を歩むと、頭を垂らし、草を食んだ。
微妙な空気が流れる。
二人は苦笑いして取り繕った。
「あっははは……シカでしたー」
野生の鹿は夕闇の中で、静かに草を食んでいる。
拍子抜けし、肩を落としてベルは言った。
「なにがトラよ、どこに縞模様があるってのよ」
「だって……ベルさんがトラじゃないかっていうから」
「あたしのせいだっての?」
「ひぃっ!」
「まったく……ビビって損したわよ」
ベルがそう言ったその瞬間、木々の合間から、赤い閃光が発した。
揺らめく赤い光は、鹿の首筋を撫でるように走ると、地面に突き刺さった。