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偽装結婚~代理花嫁の恋~Ⅳ

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「厳しいことを言いましたが、これは最悪の場合を想定してのことです。我々は常にあらゆる場合を考えて患者の容態を注意深く見守ってゆかなければなりません。だから、敢えてお話ししたんです。今、僕の上司である心臓外科の部長とも相談して、今後の治療法について改めて話し合っているところです。今は医薬も日進月歩ですから、比較的副作用の少なくてよく効く薬もあります。そういう代替になるような薬を探して服用することが最も望ましいと思えるので、今はその方向で話を纏めていますから、安心して下さい。大丈夫ですよ」
「どうかよろしくお願いします」
 由梨亜の頬を堪え切れなかった涙がつうっと流れ落ちた。
 安浦医師はハッとした表情で、由梨亜をまじまじと見つめた。
「泣かせてしまいましたね。しかし、あなたは立派ですよ。ここまで最悪の事態を想定して親族の方にお話ししたら、大概の方は、かなり取り乱されますから。だが、あなたは事実をありのままきちんと受け止め、我々を信じて下さった。きっと気丈な女性なのでしょう」
 由梨亜はバッグからハンカチを出して、涙を拭いた。
「正直、あまりにショックが大きくて、取り乱すことさえできませんでした」
 なるほど、と、医師は銀縁眼がね越しに眼を細めて由梨亜を見つめた。
 今日の由梨亜は三鷹とのデートに備えて、気合いを入れてオシャレしてきていた。白い丸襟のついたワンピースは膝丈で、紺色地に全体的に小さな白い水玉が散っている。
 少し開いた襟元には三鷹が誕生日にくれたルビーのネックレスが控えめに輝いていた。七月生まれの由梨亜の誕生石をわざわざ三鷹は選んで贈ってくれたのだ。
 少し伸びたショートボブとその清楚なワンピース姿はよく似合い、由梨亜の可憐な印象を際ただせていた。安浦医師はいつも病院に来る地味なスーツ姿の由梨亜しか見ていない。
「いや、こんなことを申し上げるのは失礼ですが、いつもの通勤着とは随分と印象が違いますね。女性はメイクやファッションで相手に与える印象が別人のように違ってくるというが、どうやら本当のようだ」
 安浦医師は三十代前半、独身だという。知的なハンサムであり、将来を嘱望されている優秀な医師であることから、若い看護婦たちにも絶大な人気を誇っているらしい。―と、これは噂好きな母が入院中にできた友達から仕入れてきた情報だ。
「どうです、一度、食事でもご一緒しませんか?」
 え、と、由梨亜は眼を見開いて安浦医師を見つめた。
 その愕きぶりに、安浦医師は破顔した。笑うと、クールな印象がかなりやわらいで、若々しく見える。
「愕くのも当然ですよね。僕も―こういうのをナンパというんですか? 女性をこうもあからさまに誘ったのは初めてのことです。もちろん、今のお誘いはあくまでも一人の男として魅力的な女性に対する申し込みであって、医師の立場とは全く関係ありません」
 見るからに真面目そうな医師から出た〝ナンパ〟という言葉は、いかにも不釣り合いに聞こえる。由梨亜の愕きはすぐに笑い出したい衝動に変わった。
 もちろん、そんな失礼な態度を取るはずもなく、気持ちを表に出さないだけの分別もある。
「申し訳ありません。折角なのですが―」
 幾ら医師としての立場は関係ないとは言われても、母の担当医である。この先、気まずい関係になっては困るので、由梨亜はできるだけ丁重に断るつもりであった。
 言いかけた時、ふいにテーブル横に誰かが立った。
「失礼」
 由梨亜は唖然として声の主を見た。
 三鷹が澄ました顔で立っている。今日は彼も流石にTシャツとジーパンではない。とはいえ、紺のポロシャツにベージュのパンツという出で立ちはけしてめかし込んでいるとはいえないだろうけれど。
 しかし、超絶美男の三鷹はそういう何げない格好でもサマになる。おしなべて男も女も美形は得である。
 三鷹は挑発的な視線を安浦医師に向けた。
「お話し中のところを申し訳ないのですが、彼女は僕と待ち合わせしていたので」
 それでも、最低限の礼儀は守って、丁寧な口調で話しかけている。
 安浦医師は頷いて立ち上がった。
「それは失礼しました。それじゃ、また。今の食事の話、考えてみてください」
 安浦医師は三鷹にではなく、由梨亜に話しかけた。実はこの時、男同士で見えない火花が散っていたのだけれど、そういった男女間のことについては年齢の割に経験も知識も乏しい由梨亜が気づくはずもない。
「ちょっと、あんた。今、何て言った?」
 三鷹は頭から無視されたので、余計に安浦医師に対して敵意を抱いたようだ。安浦医師に腕組みして迫っていくのを見、由梨亜は蒼褪めた。
「こいつは俺の女だ。横からちょっかい出すのは止めて貰おう」
 安浦医師は露骨に眉をしかめた。
「何だ、君は。初対面の人間に対して物の言い方も知らないのか」
「生憎と礼儀を知らない相手には、俺自身も礼儀をわきまえない主義でね」
「失敬な。城崎さん、この男は一体、何者なんです?」
 暗に由梨亜まで非難するようなまなざしを向けられ、由梨亜は色を失った。
「この人は―」
「夫だよ。俺はこいつの夫。ああ、旦那とか亭主ともいうな」
 わざと嫌みったらしく言うのに、安浦医師が驚愕の表情を向けた。
「しかし、城崎さんは独身だと聞いていましたが、この男は本当にあなたのご主人なのですか? まさかつまらないチンピラに脅されて関係を持つように強要されたりはしていませんよね」
「何だとォ、人をチンピラ呼ばわりしやがって、どっちが失礼なんだよ?」
 三鷹が安浦医師の襟元を掴み上げた。どちらも上背があるが、三鷹の方が更に身長が数センチ高い。背の高い安浦医師がまるで犬か猫の子のように襟首を掴まれているのは、どう見ても体裁の良いものではなかった。
「三鷹さんッ、止めて。お願いだから、止めてよ。その人は私の母の主治医なの。今も母のことについて色々と教えて頂いていたの。それだけだから」
 由梨亜が縋るように言うと、三鷹が鼻を鳴らした。
「フン、手前の方こそ、主治医という立場をひけらかして、患者の娘に関係を持つように強要してるんじゃないのか、え、気取り返った先生さま」
「な、なっ」
 安浦医師の顔が引きつっている。冗談ではなく、このまま心臓発作でも起こしかねないほど頭に血が上っているようだ。エリート医師として出世コースを順調に歩いてきた彼のような男には、こんなあからさまな侮辱は到底、受けたこともなく、堪えられないものなのだろう。
 三鷹は舌打ちして、安浦医師から手を放した。安浦医師は血の気の引いた顔を強ばらせ、その場に突っ立っている。
「安浦先生。本当に申し訳ありませんでした。主人には後でちゃんと言って聞かせますので」
 由梨亜は三鷹を引っ張るようにして、喫茶店から出た。
「何で、あんな失礼なことを言ったの?」
 由梨亜は眼に涙を滲ませて言った。
「あの人は母の担当医よ。こんな揉め事があって、母の治療に影響が出たら、どうするの?」
 今日の三鷹への態度を見れば、人間的にはあまり好ましいとはいえないが、医師としては優秀だし評判も悪くない。今日の出来事で、安浦医師が母の担当を外れると言い出すことも考えられた。