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偽装結婚~代理花嫁の恋~Ⅱ

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★衝撃★

 自宅の前まで帰ってきた時、由梨亜は何となく嫌な予感がした。それは別に何ということはない、ただの勘にすぎなかったけれど、どういうわけか、子どもの頃から、その類の感は不思議に的中してきた。
 まだ七歳くらいだった頃、母方の祖母が急に倒れて亡くなる直前も、やはり、夜半にうなされて飛び起きたものだ。
 愛媛の田舎に住む祖母とは学校が休みのときくらいしか逢えなかったが、優しくて大好きだった。その祖母が大きな得体の知れぬ影に飲み込まれてしまう夢を見たのである。
―お母さんッ。
 飛び起きて傍らに眠っていた母に抱きついた、あの夜。
 あのときの恐怖は今でも甦る度に、背筋が凍る想いになる。
 今、由梨亜の中にひた寄せる感覚は、あの夢を見たときと酷(ひど)く似ていた。しかし、別に夢を見ているというわけではなく、いつものように自転車を漕いで帰ってきたところなのだ。
 Nホテルは大通りを挟んでN駅とほぼ向かい合う形で建っている。由梨亜が勤務していたS物産はNホテルからもほど近い。自宅からは歩いても十数分の距離だが、彼女は自転車通勤していた。
 母に余計な疑念を抱かせまいと、由梨亜は毎朝、以前と同じように定時に家を自転車で出ている。むろん、帰宅時間も会社勤めをしていた頃と寸分違(たが)えない。
 今日も六時きっかりに自宅に帰り着いた。
 家の周囲を塀が囲んでいる。鉄製のさび付いた門を開け、ガタガタと自転車をいわせながら庭に入れた。自転車置き場なんてものはないから、いつものように軒下に置く。
 おかしいな、首を傾げた。
 この時間であれば、母が台所で煮炊きする匂いが表までそこはかとなく漂ってきているはずだし、第一、今は明かりすら灯っていない。
 台所だけでなく、数部屋あるどこにも明かりはついていなかった。由梨亜の心配はますます膨らんでゆく。とにかく家に入ろうと玄関の引き戸を引いても、開かなかった。
「どこかに出かけているのかしら」
 外出しているのであれば良いのだが、それにしても、母にはこれといった友人もおらず、しかもこんな時間まで出かけていることは滅多とない。
 とりあえず合い鍵で開け、中に入った。
 ガランとした家の中は常以上にひっそりとしていた。母に連れられて家を出た五歳のとき以来、由梨亜はずっと母と二人だけの暮らしだった。だが、特別に淋しいと感じたことはない。いつも側に母がいてくれるのが当たり前なのだと思い込んでいた。
 高校卒業までは、保険外交の仕事をしている母より、大抵、由梨亜の方が先に帰宅していた。だから、由梨亜はカレーとかシチューとか比較的簡単な料理を拵えて母の帰りを待つことも多かった。
 そんなときは当然ながら、真っ暗な家に帰るのだが、それでも、心細いとは思わなかったのだ。待っていれば、必ず母が帰ってくると信じていたからだった。
 だが、今のこの心細さといったら、どうだろう。もうこのまま二度と母が戻ってこないような、訳の判らない不安がけして引かない波のように時間と共に満ち満ちてゆく。
 お母さん、どこにいるの? 早く帰ってきて。
 小学生ではあるまいに、良い歳をした大人がまるで幼子のように母を求めていた。居間、由梨亜の部屋、母の部屋、台所、果てはトイレと風呂場まで覗いてみたが、人影はない。
 台所には確かに夕食を作りかけらしい痕跡はあるにはあった。しかし、いずれもが中途半端なままで、放ってある。
 これはただ事ではないと直感が告げていた。何事にもきちんとした母が夕食の支度を放り出して、どこかに出かけるなんて、あり得ない。
 居間に戻ってきて、しばらく一人で座り込んでいても、時計が時を刻む音だけがやけに静寂に響き渡った。由梨亜が大きな息をついたその時、不安に満ちた空気を切り裂くように、携帯の着信音が鳴った。
「もしもし」
 つい不安が滲み出た戸惑い気味な声になってしまう。
「ああ、由梨亜ちゃん」
 聞き慣れたその声に、由梨亜はホッとした。電話をかけてきた声の主は母の妹悦子叔母であった。
「叔母さん、お母さんと一緒なんでしょ」
 当然ながら、母は叔母と一緒にいるのだと思い込んでいた。悦子叔母さんの夫の孝幸(たかゆき)叔父さんは昔から、すごぶる愛想が悪く気難しい。なので、母は孝幸叔父さんに遠慮して、悦子叔母さんともあまり連絡を取り合ったりはしなかった。
 しかし、母が家におらず、その最中に叔母さんから電話がかかってきたということは、母が叔母さんと共にいるということに違いない。
「それがねぇ」
 悦子叔母さんから話を聞くやいなや、由梨亜は取る物もとりあえず家を飛び出していた。自転車でもいけないことはなかったが、時間がもったいないので、タクシーを使った。普段は倹約家の彼女もこの際、そんなことを言ってはいられない。
―それがねぇ、家で急に発作を起こしてしまって、今はN病院にいるのよ。
 叔母の科白が壊れたビデオのように際限なく耳奥でリフレインしている。
 母はあろうことか、夕方、台所に立っているときに発作を起こして倒れたのだという。詳細は病院に着いて話すからと電話を切り、由梨亜は病院に急いだ。生命に別状はないと聞いてはいたものの、やはり、無事な顔を見るまでは安心はできない。
「運転手さん、もう少し急げませんか?」
 交差点でまだ信号が赤になるには少し余裕をもって停車させた運転手に、由梨亜は噛みつくように言った。
 支払いを済ませ、まろぶように車を降りると、予め叔母から聞いていた病室へと階段を二段飛ばしで駆け上がる。
 倒れた母を見つけたのは近所の主婦であった。母よりは少し若いこの主婦は、以前、母と同じ保険会社で内勤をしていたことがあり、平素から親しく行き来していた。昼間に遊びに来ることもたまにはあったようだ。偶然、訪ねてきたところを倒れていた母を発見したというのだから、運が良いとしか言いようがない。
 もし、酒木(さかき)さんが来ていなかったら、或いはそのまま―。考えて、由梨亜は嫌々をするように首を振った。
 酒木さんのところにも後でお礼に行かなくちゃ。
 由梨亜は丸顔の人の好さげなその主婦の顔を思い浮かべた。救急車で運ばれた母は一旦は救急病棟にいたが、容態が落ち着いたことから一般病棟に移ったという。
 一般病棟の三階の一室に、母は入院していた。部屋の前には二人用のプレートがあり、母の名前がペンで記されている。どうやら現在のところは、母一人しか入っていないようである。
「叔母さん」
 時刻も時刻だけに、病院内は静まり返っていた。まるで既に使われなくなって久しい廃墟のような感さえある。
「ああ、由梨亜ちゃん」
 悦子叔母はベッドの傍らに丸椅子を置いて座っていた。
「今日はお世話になりました。ご迷惑をかけて本当にごめんなさい。叔父さんが怒っていなかったら良いんだけど」
 叔母さんが笑顔になった。
「なに水くさいことを言ってるの。私とあんたのお母さんはこの世でたった二人きりの姉妹なんだから。そんなことでいちいち礼なんか言わなくて良いの」
 叔母さんは孝幸叔父さんのことについては一切触れず、細い眼をしょぼつかせた。