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キューブ

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「それで。おまえ、何しに来たって?」
 ようやく腰を落ち着けると、ヤナギは持ってきたコンビニの買い物袋を示した。薄いビニール越しに、ビールやチューハイの缶が見えた。
「お酒、付き合って」
「おまえは既に、酒臭い」
 にこにこと笑うヤナギの前に、日本茶を置いてやった。ヤナギは不服そうに音を立てて緑茶を啜った。
「じゃあ、何か話して」
 テーブルに頬杖をついて、ヤナギが口の端を吊り上げる。何か、話して。元気が出る話。昔、よくせがまれたことを思い出す。残念ながら、元気の出る話なんて、そうそう無いんだ。
 だって。こんな事を言ったら、傷つけるかもしれない。それでも、言葉は口からこぼれた。
「ヤナギさ。オレと付き合わない?」
 一瞬の沈黙の後。ヤナギが思い切り吹き出した。結構、本気だったのに。遣る瀬ない思いに、拳を握りしめる。
「橘、最高」
 ヤナギは腹を抱えて笑い続ける。どこか、辛そうな笑顔だった。
「あっ。ルービックキューブ!」
 不意に本棚に目を向けたヤナギが、棚の上に置いてあったおもちゃを見つけて、手を伸ばした。昔流行った、単純なおもちゃ。
 きれいに揃えてあった色を、ヤナギはあっという間にばらばらにしていく。
「おい。戻すの、大変なんだぞ」
 慌てて止めようとしたが、遅かった。小さな立方体は、統一性のない、カラフルなものに変化していた。
「ルービックキューブって、嫌い」
 ヤナギがぽつりと呟いた。内部が壊れているのだろう。小さな立方体は、回す度にきりきりと音を立てた。歯車が回る音に、似ていた。
「六色あるでしょ。これ、いくら回しても、混ざり合わないの。だから、嫌い」
 酔いが、醒めていないのだろう。いまいち意味の掴めない言葉を、ヤナギが発する。
「六色あって。青いのが表だとしたら、白いのは裏になるでしょ。他にも、赤とか、黄色とか。好きな色とか、嫌いな色。六色も色があって、少し回しただけで、それが出てくるの」
 きりきり。きりきり。キューブが回ってばらばらな六色が、あちこちで個性を主張する。
「混ざらないから、隠せないの。それが、簡単に表に出てくる」
 完全にばらばらな状態のルービックキューブを、ヤナギが放る。戻してみなよ、という挑戦のように。
「一色だけだったら、嫌われなく済んだかな」
 カシャッ。
 軽快な音を立てて、キューブが回る。青は、青。白は、白。混ざらないけど、それでいい。オレは、そう思う。
「人も、いろんな面があるもんだろ」
 ヤナギ。おまえが何を言われたか、知らないけど。
 ばらばらな六色が、手元で徐々にまとまっていく。赤も、黄色も。
「それこそ、六面なんてもんじゃない。数え切れないくらい、色んな面がある。一色だけ。一面だけ。そんな人間、いるわけない」
 いろんな面。いろんな、色。ぜんぶひっくるめて、オレはオレ。おまえは、おまえだ。
「気にすんなよ」
 ヤナギが、笑う。乾いた笑い声が、静かな部屋に響いた。ヤナギらしくなかった。昔は、もっと楽しそうに笑う奴だった。心の底からおかしくて、楽しくて。弾けるような、笑い方。あの笑い声を、いつかまた、聞けるのだろうか。ヤナギの側で。
 無理して笑うな、と言えなかった。無理してでも笑ってなきゃ、やりきれない時だってある。
「やっぱりさ。童話みたいには、いかないよね。完璧な王子様なんて、いるわけない」
 だから、オレが。
 そう言おうとして、止めた。黙って、完成した六面体を棚に戻す。
「橘。水、飲みたい。ミネラルウォーター、買ってきて」
「は?」
 いいから。そう言って、ヤナギが玄関を指差す。酒と一緒に買ってくればよかっただろ。呟きながら、腰を上げる。アパートの前の自販機まで、わざとゆっくり歩いた。
 外は、夕暮れ時だった。いつの間にか赤みを増した陽光が、静かに辺りを照らしている。自販機に小銭を押し込んだときの、微かな音が耳についた。
 部屋に戻ると、西日の中にヤナギが座り込んでいた。部屋の隅に置かれたイーゼル。描きかけの絵を覆っていた布が外されている。その絵を見ながら、ヤナギが泣いていた。
 藍。群青。瑠璃。コバルトブルー。ネイビーブルー。インディゴブルー。トルコブルー。いろんな青が混ざり合った、深い海の絵。
 もう大丈夫。
 そう言われてから、一年半。この色を出すために、かけた時間だった。
 でも、まだ足りない。未完成の、深い海。
 声を押し殺して泣くヤナギに言葉をかけることができなくて、黙って背中を向けて座り込んだ。
「橘」
 いつものヤナギらしくない、か細い声が耳に届いた。
「私も、橘のことは嫌いじゃないよ」
 でも。だから。
「今は、待ってて」
 オレンジ色の光が、部屋と、青いキャンバスを包み込んでいた。いつか完成する、海を。
作品名:キューブ 作家名:依織