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キューブ

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帰って来ると、ヤナギが倒れていた。
 小さなボロアパートの、玄関先。冷たいコンクリートの上。壁に背を預けるようにして。両足がぞんざいに投げ出されて、狭い通路を封鎖していた。驚いて駆け寄ると、わずかに開かれた唇から規則正しい深い息遣いが漏れ聞こえた。倒れていたというよりは、寝ていた、の方が正しいだろう。呆れは怒りを沸き立たせ、その怒りは一瞬で苦笑に回帰した。
 久々に会うヤナギは、以前と少しも変わっていなかった。もともとショートだった髪が更に短くなったくらいだ。
「ヤナギ?」
 男性名とも、女性名ともつかない、不思議な名前を呼ぶ。
 大きな目と細い体躯のお陰で、外見は女性らしい。けれど、内面は横着で大雑把で男勝り。総合的に判断すると、ヤナギはどこか中性的人間だ、というのがオレの意見だ。
 どこか綺麗で、どこか飄々としていて、どこか冷たいような、温かいような。深い海のような、そんなイメージを勝手に抱いていた。
「おい、ヤナギってば」
 背負っていた重い荷物を降ろして肩を揺すると、ヤナギはようやくとろんとした目を開けた。
「あぁっ、橘。おっかえりぃ」
 へらへらと無意味に笑って、ヤナギが呂律の回らない口調で言った。気分の悪くなりそうな、独特な匂いが漂う。
「うわ、臭っ。ヤナギ。おまえ、酔っ払ってねぇ?」
「ちょっとだけぇ」
 語尾が間延びしたしまりのない口調で、ヤナギが答える。
「ちょっとだけ、ってレベルじゃないだろ。だいたい、何でオレのアパートの前で寝てるんだよ」
 酔いつぶれたボーイッシュな女が、部屋の前で寝てました。ご近所さんに、どう説明をすればいいんだ。
 家族と喧嘩をした。友達と取っ組み合いになった。飼っていたネコが、いなくなってしまった。子供の頃からずっと、泣き喚くヤナギを宥めるのは、オレの役目だった。ヤナギに、物好きな彼氏ができるまで。
 そういえば、ヤナギがオレの前に姿を現すのは、一年半ぶりのことだ。十八ヶ月という数字が、ぼんやりと頭に浮かぶ。
「彼氏は、どうしたんだよ」
 脈絡もない問いが口をついて出てきた理由は、ヤナギに言われた言葉がいつまでも頭の中に残っていたからだろう。
 これからはもう、橘に頼らなくても大丈夫、と。
「フラれたの」
 冗談めいた調子で、ヤナギは口を尖らせた。
「あ、そ」
 ヤナギの言葉には驚いたけれど、平然を装う態度を見て、余計な反応は止めた。素っ気ない口調で相槌を打つ。
 他人の不幸を喜んじゃいけないな。そうは思っても、心のどこかに安堵に似た感情が生まれた。にやけてしまいそうな口元を必死で抑え、表情を崩さないままポケットを探る。
 部屋の鍵を取り出すと、ヤナギはそれを奪い取って中に入った。
「うわ。埃っぽいし、油臭い」
 扉を開けた途端に、非難の声が上がる。二週間の間に、フローリングの床はうっすらと埃をかぶっていた。そこに微かに、油絵の具の匂いが混じっている。
「仕方ないだろ。日本にいなかったんだから」
「え。橘、どっか行ってたの?」
「オーストラリア、一人旅。おまえ、よく帰国する日がわかったな」
 昔から、タイミングだけはよかった。思い返してみても、行き違いになるなんてことは無かったように思う。
「一時間くらい前に来たんだけど、橘がいなかったから待っててあげたの」
 恩に着せるような言い方をして、ヤナギが小さなくしゃみをした。初冬。南半球から帰ってすぐに、風の冷たさを感じた。薄手のジャケットの袖を引っ張るヤナギを見て、慌ててエアコンを入れた。
「掃除するから、その辺で待ってろや」
 窓を開けてフローリングの床にモップをかける。その間、ヤナギは部屋の中をうろうろと歩き回っていた。
 小さなガラステーブルと、画集ばかりが詰め込まれた本棚。乱雑に置かれたイーゼルや画材。描きかけの絵。昔、テレビのないこの部屋を訪れるたびに、ヤナギは退屈しないのか、と聞いてきた。
作品名:キューブ 作家名:依織