「レイコの青春」 31~33
「二つ目の反省点は、
この一件で、傷ついてしまった心を癒すためのプログラムです。
綾乃ちゃんを亡くして、悲しみにくれている美千子さんの、
心の苦しみを癒すためのプログラムが、私には、
まったく準備をされていません。
心を癒すためには、医療的な知識と人道的な配慮が大切です。
しかし、ここでもまた私は、その準備を怠りました・・・・
上に立つ者としては、重大な見落としのひとつです。
これも私自身の、大きな落ち度です。
償うべき保障の金銭や、物質的な支援も大切ですが
問題はそれだけでは解決をしません。
傷ついた心をどう癒すのかというプログラムは、人が人らしく暮らして、
生きていくためには、絶対的に欠かせないものだと、
あらためて実感をいたしました。
有りえないことが現実に起こった時、
人の心に生じた痛みや苦しみは、実はその瞬間から始まって、
徐々に広がリ深まって、人の心を蝕ばみはじめます。
心の傷や痛みをどう癒すのか・・・
そのためのプログラムはきわめて大切です。
私はそれもまた・・・
その準備を、怠ってしまいました。」
「3つ目は・・・」
そう言いかけた瞬間、
園長先生の言葉が止まってしまいました。
その言葉を言うべきかどうかを、園長先生は、自分自身に
問いかけているようにも見えます。
心が揺れてためらっているような、そんな雰囲気が漂います。
が、しかしそれは、とても短い沈黙でした。
「それらのことに、
やっと気がついたというのに、たいへん残念なことに、
もう私には、そうしたことを、
是正出来るだけの時間が残っていないようです。
これから先のたくさんの未解決の問題を
私は、若い人たちに押しつけてしまうかもしれません。
本来は、私が解決をしておくべき問題なのですが、
もう身体が、それを許してはくれません。
しかし私たちの、なでしこ保育園には、これから先の将来を
充分に託せるだけの、若くて有能な人たちがたくさん集まっています。
取り返しのつかない綾乃ちゃんの事故のあとには、
たくさんの教訓と、きわめて深い悲しみが
たくさんの人たちの胸に残りました。
責任をまっとうしながら、信頼を回復まで続くと思われる
この辛い道のりは、たぶん、なでしこ保育園をもう一回り大きく
成長させてくれることになると、私は心から信じています。
保育園とは、そこに集まる園児をはじめ、
親も保育者も、すべての皆さんが学んで成長をする
場でもあると私は考えています。
子供たちは日々遊びと生活を通じて、いろいろ学んで成長をしますが、
保母さんたちもまた、様々な経験を通じて成長をします。
お母さんたちもまた、同じように子育てを通じて成長を遂げます。
子供も、保母も、お母さん方も、それぞれに学び成長をする、
それこそが、保育園が持っている、
もう一つの役割だと、考えています。」
そこまで、語り終えた園長先生が、ゆっくりと立ちあがります。
課長と係長に向かって深く、丁寧に頭を下げます。
陽子と幸子が、左右からあわてて園長先生を支えました。
「桐生市には、今でも、乳幼児やゼロ歳児を抱えながら、
仕事を続けてい若いお母さんたちが、沢山います。
なでしこが取るべき責任は、はっきりとしています。
保育に欠ける、こうした子どたちを
受け入れるための窓口を拡げることは、すでに時代の急務です。
3歳児以下の保育の道をひらくこと。
これこそが、なでしこがやり遂げなければならない
仕事だと、私は今でも考えています。
どうぞ、この先のためにも・・・
若いなでしこの保母さんたちの成長と
乳幼児保育の実現を心から願っている、
多くの、桐生のお母さんたちのためにも
今まで以上に、力を貸してください。
今日は、今の私の立場も顧みずに、こうして無理なお願いのために、
あえて、市役所のみなさまに会いにまいりました・・・」
その言葉が終わらないうちに、
園長先生の身体からは、力が抜けてしまいます。
崩れ落ちようとするその身体を、幸子と陽子がかろうじて支えました。
「陽子君、救急車!。」
椅子を倒して立ちあがった課長が、いち早く陽子へ指示を出します。
レイコが背中を支えに駆け寄った時には、すでに園長先生の顔には
血の気がなく、真っ白に変わっていました。
作品名:「レイコの青春」 31~33 作家名:落合順平