空の子供
かつかつと足音をおおっぴらに、パイロンが近寄ってくる。
扇を閉じて、その先を片手で受け止めぱしぱしと叩きながら無表情に。
それから、…一瞬何が起きたか判らなかった。
シェイに支えて貰わなかったら、私は倒れていただろう。
――口に鉄くさい味。殴られたのだ。拳骨で。
「な、何する…」
「シェイに何を言った!? どんな甘いことを言った!?」
「え…」
「…こんなことになるのなら、関わらせなければ良かったと思ってしまうよ。どんなことを、末っ子に吹き込んだ?」
「夕子、ボクを愛してくれる、って言ったんだよ」
にこにこ顔で、今の空気が読めずに、シェイはパイロンに報告する。
パイロンはその言葉を聞くと、何とも言い難いしょっぱい顔をした。
それから、口元を扇を開き隠す。
「愛? 愛じゃと? オレらには必要のないものじゃ、シェイ。そんな感情捨て去れ」
「何故? 厭、厭。ボク、初めて愛して貰った、愛せた。なのに、捨てるの厭」
「末っ子! 愛の厄介さは、お前さん、知っとるじゃろう? 今まで人間界をただ眺めていただけではあるまい」
「愛の何がいけないの!? お母さんにもお父さんにも愛されずに育ってしまう方が問題よ!」
私が睨み付けるようにそう言うと、パイロンは扇で顔を隠した。
それに私は少し腹が立って、扇をどけさせた。
「顔を隠さないで! 表情を隠さないでよ! 貴方だって、貴方だってシェイのこと思って居るんでしょう? シェイが可哀想だって思ってるんでしょう!? この子が一人で寂しがっているのを知って、それで私を巻き込んだんでしょう!?」
扇でいつもは隠している表情が、露わになった。
その表情は、――悲しみに満ちていた。悔しさにも似た表情が、其処にはあった。
グイは何も反応しない。グイは空の子供「らしく」、興味は持たないみたいだ。
パイロンは、扇を閉じて――露わになってしまった今、隠す必要はないと思ったのだろう――、私をまっすぐと見据える。
「愛は、一番教えてはならない感情なんじゃよ、人の子」
「何故よ」
「…愛の危険さを、知っているか? 裏切られたとき、人はとんでもない行動に走る。父上も母上も姉者もそれをよく知って居るから、一線を引いて居った。尤も姉者は引くのが遅かったが」
「でも、愛を知ることで得る素晴らしい世界もあるわ!」
「……お前さんは、自分が殺された後のことを責任は取れるのか?」
「は? 殺される? 唐突ね」
「其処まで唐突ではない。…そこな娘を殺された兄弟、お前さんを逆恨みしてないとは言い切れるか?」
「……!」
足我さんのお兄さんが、怒って私たちを、追いかけてこないとは、言い切れない。
そして、その中で一番弱い私を殺そうとしてたら、何も出来ない私は、とてもじゃないけど対抗できないだろう。
殺されるとする。そしたら、残されたシェイは?
シェイは、また独り? ……パイロンが居るじゃない。大丈夫よ、きっと。
「貴方が、居る」
「…――」
そう言ったときの、パイロンの表情といったら。
ぎょっとしていて、口を真一文字にしたまま、固まっていた。
私は笑って、シェイの手と、パイロンの手をとって、握手させた。
「本来は、こうあるべきで、私が教える事じゃないのよ。貴方が、シェイに与えるべきなのよ。貴方は、きっと、兄弟の中で一番シェイを理解しているんだから」
グイがくくくと笑いをかみ殺して、喉奥で笑っていた。
それを睨み付けるパイロン。でも、何も反論はせず。ただ、黙って、その手を見つめていた。ぎこちない握手を。
だが、それを拒否しだしたのは、シェイのほうだった。手をふりほどき、そっぽを向く。
「やだ、夕子死なないもん。ボク、守るもの。だから、パイが居なくても平気だもの」
「シェイ、私は人間よ。貴方達と違って、脆いの」
「厭だ、今から死ぬ話なんてしないで!」
シェイは泣き出して、逃げ出す、この場から。
追いかけろ、と顎で促すグイ。私は、一度パイロンを見遣ってから、追いかけた。
「判ったか、愛の危険性が。こうやって、何も見えなくなる」
そんな言葉が、後ろから聞こえてきたような。
この時から、何もかもが手遅れだと、パイロンは知っていたような気がする。
「シェイ、ねぇ、待って、シェイ!」
「厭だ、待たないッ」
シェイが駆けていく、逃げていく、捕まえなきゃ、捕まえなきゃ。
MASKがシェイに寄生されているから、とかじゃなくて、シェイを今捕まえなきゃずっとこのままお別れしそうな気がして。
私は、何とかシェイを捕まえようと、必死に頭を酷使して、思いついたのが、よくあるパターン。
「あ、痛ッ…」
「え、夕子…?」
私はその場にしゃがみこむ。すると、シェイが青ざめて、夕子!と、駆け寄ってくる。 そこで、私は舌を出して、えへへ、と笑い、シェイを抱きしめるのだ。
「捕まえたッ」
「……〜〜夕子! 心臓に悪い!」
シェイは少し怒っていた。こんなことされるのは、生まれて初めてなんだろう。
そして、こんな感情を抱くのも、きっと、初めて。
私はそのまま、地面に座り込んで、シェイから離れる。シェイもつられて、地面に座り込んで、見合う形になる。
「シェイ、さっきのことは…」
「厭。聞きたくない」
「シェイ。そりゃね、見たくないこと、聞きたくないことはあるわよ、誰にだって。私だって、さっき泣いたとき、聞きたくなかったもの、魔法使いに向いてるなんて皮肉」
「皮肉なの、あれ?」
「……まぁ、それはともかく。だからね、誰にだってあるの。でも、それを受け止めないと、前に進めないでしょう? 私は、寿命が長くて八十年。貴方はいつまでも」
「……ボクだって、長命ってわけじゃない…――もしかしたら人よりも……」
「え、何? 何か言った?」
「…ううん、何でもない」
「とにかく、そんなとき、愛してくれる人が私だけじゃ、失ったときのショックは大きいと思うのよ」
「……でも、夕子が居れば、それでいい」
「私は、何時死ぬか判らない」
「…闇魔法使って、生き返らせる!」
「…人じゃなくなるのよ? いいの、貴方、それで。人でない、私と会って」
「……――」
「シェイ、私、貴方のこと、大好きよ? だからこそ、判って欲しいの。私は死ぬ。いつかは。そして、貴方達との別れも、いずれは来る」
「……厭、厭、厭!」
シェイは、何を言っても、受け入れてはくれなかった。
どんなに優しくしても、どんなに厳しくしても。
ただ、首を振って、夕子と居たい、というだけ。ある意味これは幸せなのかもしれない。
でも、私を失ったときのシェイのことを考えると、悲しくなる。
だから、私は何時間もかけて、一寸ずつ説得することにした。
結果は、まぁ、説得成功五割、納得いかない五割で済んだ。
渋々としているシェイを連れて、グイとパイロンのところに戻る。
「説得は巧くいったかね?」
「さぁね」
「……まぁ、よい。問題は、シェイにMASKが寄生したことじゃ。ハオが知ったら、なんというか…」
そこまで言われて、私はまだ月の子に会ってないことを思い出す。