尖塔のみえる町で
ユージにも一度、聴いてもらったことがある。奴は学校にいる多くの日本人のなかで、おれに近い何かをもっているような気がした。本当にやりたいことがあるのに、まだ本気でそれに取り組んでいない奴が周囲を見るとき特有の眼を、ユージに感じたのだ。時にひどく退屈そうで、不満そうで、卑屈で、どこか一歩引いて周囲を眺めているような眼。
この部屋でおれが用意した日本のサケを酌み交わしながら、ユージといろんな話をした。なぜこの町に来たのか、これからどうしたいのか。ユージもおれの話に応えて、ここに来た理由を教えてくれた。彼はきのうが今日であっても明日であってもかまわないようなくり返しの日常から遠く離れ、新鮮な体験をしてみたかったのだという。そうすることで、錆びかかったいろんな感覚を研ぎ澄まし、生きていく自信を取り戻そうとしているらしかった。
ユージはこれまで、いくつかの小説を書いてきたという。しかし、自分の納得のいくものがまだできあがっていないらしい。
おれの歌を聴いたあと、ユージは「なんだかやる気が湧いてきた。また小説が書けそうな気がする」と明るい声で言った。韓国語で歌っても、彼の胸になにがしかが伝わったようで、正直おれはうれしかった。
おれは歌い続ける。おまえは書き続ける。とにかく、そうやって生きていこうじゃないかとおれはそのとき言ったような気がする。
サケが身体の芯を熱くさせるのを心地よく感じながら、そのときおれはアメリカの町から町を旅しながら歌って歩く自分の姿を夢想し始めていた。
おれのフラットは町の丘の上にあり、部屋の大きな窓からはコレッジの古い建物がひしめく古い町並みが一望できた。黄昏に徐々に沈んでいく町のあちこちに、教会やコレッジの高い尖塔が天を突くように伸びているのが見える。街灯がオレンジ色のはかなげな光を歩道に落とし、石畳の細い裏通りを古めかしい自転車がゆっくりと走り抜けていく。
ユージは窓辺にたたずみ、この国にはありふれたそんな景色に心を動かされていたみたいだったが、おれには教会の尖塔の代わりに摩天楼が林立し、車や人の波が途絶えることのない大都会のほうがずっと現実的で刺激的で、気持ちを掻きたてられるような気がした。
人にはわかり合える部分と、どこまでいっても理解できない部分があるものだと思う。
おれはユージにIのことを話してみた。ユージはそれは残念だったねと言ったあと、でもと……とことばを続けた。
「彼のことを非難しても仕方がないんじゃないかな。彼はまさに君の歌の詞にあるように、いまこのときを自分の思うように力一杯生きているだけなんじゃないか。君に対する態度がいいとは思えないけど、彼は彼で、自分を選んでくれたこの町で、けっこう必死にやってるんじゃないのか」
確かにそのとおりかもしれなかった。奴はこの町にたどり着くまでに、相当な努力を傾けてきたにちがいない。自分がやりたい学問に没頭するためにがんばってきたのだろう。そしていまも一生懸命でいられるのは、それが本当にやりたいことだからだろう。そんなIからみれば、いまのおれはただ中途半端な生き方をしているようにしか見えなかったのだろう。
「おれも、自分が選ばれる町を探し出してみせるよ」
おれはユージに言った。自分が選び、かつ選ばれる町を。おれだって、いつかねと、彼はサケを喉に流し込みながら笑った。
久しぶりに会ったユージとおれは、カム河のほとりにあるパブでビールを飲んだ。よどんで流れのない河に沿って延びる遊歩道を人々は寒そうにすこし背を丸めながら早足に通り過ぎていく。
「アメリカは危ない所も多いだろうから、気をつけろよ」
ユージはおれの身を本気で心配してくれているようだった。おれは行く先々で、手紙を書き送ることを約束した。
ユージはクリスマスまではこの町にとどまるつもりらしい。おれにとっては退屈でも、彼にとっては居心地のいい場所なのだろう。
学校でいろんな国の留学生に出会えるのが楽しいのだという。もちろん君に会えたこともね、そう言ってユージはにっこり笑った。
ソウルを発つ前、おれはこの町を自由への旅立ちの最初の場所として選んだ。けど、ひと月たってわかったのは、この町はおれを選びはしなかったということだ。だから、まもなくニューヨークに向かう。そこがおれを選んでくれるかどうか、いまはまだわからない。広大なアメリカ大陸を放浪して、結局はソウルに帰るだけかもしれない。でも、それはそれでひとつの答えなのだろうと思う。
いつか、おれはこの町やユージとのことを自分のことばで歌うだろう。そうやって、おれは生きている限り、だれに邪魔されることもなく、どこにいても自分の歌を歌い続けるだろう。