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尖塔のみえる町で

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4 ソウルから・二十歳・リー 十月



 久しぶりにユージに会った。マーケット広場のくだもの屋の店先で。
 学校にずっと来てないみたいだけどどうしたのかと訊かれる。来週の月曜、ニューヨークに発つことにしたと言うと、ユージはひどく驚いた。あのときの話は本当だったのかと。
「この町は退屈すぎる。もう用はないんだ」
 おれがこの町にこれ以上ふみとどまる理由は、もうどこにも見当たらなかった。
 ケンブリッジに来たのはひと月前。フラットで一人暮らしをしながら、語学学校に通い始めた。でもすぐに飽きてしまった。まるで日本にある英語学校と思うくらい日本人がうようよいるし、授業も文法ばかりでおもしろくない。
 そもそも、おれは英語の勉強なんかどうでもよかった。とにかくソウルから脱出したかった。あの家から、両親からできるだけ遠くへ逃げたかったのだ。親の言いなりになって勉強に明け暮れ、大して行きたくもない大学なんかに入ったのが、やっぱり間違いだった。おれは自分で曲をつくり、詞を書き、ギターを弾いて歌っていたかった。そういう自分を認めてもらいたかっただけなのに。
 両親の希望した大学には落ち、三流の学校にかろうじて拾われたようなおれに、二人がもはやなんの期待もかけていないのは明らかだった。おれよりずっと要領のよくて優秀な弟に希望を託せばいいのさ。
 おれは半年で大学をやめると、アメリカに行くことを考えながら、ひたすらバイトをして金を貯めた。兵役につく歳になっていたが、視力が著しく悪いため免除となった。軍隊に行くのはいやだったから、正直救われた思いだった。
 自分の歌を気に入ってくれたオーナーのライブハウスで月に一回ライブをやり、毎回聴きにきてくれるお客も徐々に増えていった。だが、その程度のことで音楽の道で食べていこうと真剣に考えるほど、おれは子供じゃなかった。
 いずれはまともな職業について地道に生きていくしかないと思っていた。音楽は遊びとしてやればいい。仕事として歌わなくちゃならない生活をするより、そのほうがずっと好きなように楽しくやれるはずだと思ったからだ。
 でも、まっとうな人生の道を歩きだす前に、一度だけでいいから、ソウルから飛び出して、アメリカというばかでかい国で、自由気ままな旅をしてみたかった。自分で稼いだ金で、自分の好き勝手に時間を使うという贅沢をしてみたかった。あるいは、一人でどこまでやれるのか、まったく未知の世界で試してみたかったのだ。
 そのおれがアメリカではなく、イングランドのケンブリッジに来てしまったのは、この町にある大学のトリニティコレッジに中学時代の親しい友人のIが住んでいることを知ったからだった。ライブハウスで再会した共通の友人がそれを教えてくれた。Iは当時からずば抜けて成績がよく、市内でもトップクラスの進学校に進んだことは知っていたが、高校に入ってからはほとんど会う機会もなく、まさかケンブリッジで大学生活を送っているなどとは思いもよらぬことだった。
 おれはIのことが無性に懐かしくなり、アメリカを放浪する前に、突然彼を訪問して驚かせてやることにした。せっかくケンブリッジまで行くのだから、ひと月ほど滞在してすこし英会話の勉強をし、ロンドンなども見て回り、それからいざニューヨークへ飛ぶつもりだった。 
 ところが、四年ぶりに会ったIはすっかり人が変わったみたいだった。なんだか、とてもいやな野郎に成り下がっていた。トリニティでどれほど大層な学問をやっているのか知らないが、三流大学を中退しギター片手にふらりと現れたおれを、Iは明らかに軽蔑の眼で見下ろしやがった。クイーンズイングリッシュに染まったせいか、妙なアクセントのついた韓国語でしゃべるのも気に入らなかった。
 イングランドの伝統と格式のかびくさい世界で毎日を送っているIには、ソウルの中学校時代の思い出なんて、記憶しておく価値のないつまらない過去にすぎないらしかった。
 おれとIとの会話は終始かみ合わなかった。 
 管理の行き届いたトリニティの庭は整然とした冷たい表情で、立ち去るおれの前に広がっていた。その青々とした芝生の上を堂々と横切れるのは、ここで選ばれた人間だけなのだ。おれは足早に狭い門をくぐって町に出た。
「こんな古くさい田舎町はごめんだ。大昔の亡霊たちにとり憑かれてしまわないうちに、さっさと出て行こう」
 湿った冷たい風が背中を押した。灰色の雲が垂れ込めた空の下、コレッジ街の陰気な裏通りを歩きながら、こんな町に立ち寄らず、直接ニューヨークに行くべきだったと後悔した。
 この町では何もかもが古くさく、道行く人々もみな陰気くさくみえた。優秀で選ばれたはずの学生たちもみな、どんよりとした空のような冴えない暗い色の服を着て、うつむきがちに足早に通りを行き過ぎる。こんな町に長くいたら、一気に老け込んでしまいそうだった。
 おれは一週間もすると退屈な学校から遠ざかり、フラットで曲を作って歌ったり、ロンドンのライブハウスやシアター、美術館などに足繁く通うようになった。自分が行きたいときに、行きたいところへ行き、見たいものを見、聴きたいものを聴く──。そんなふうに毎日を過ごせることが、なんだか夢のようだった。いまの自分には、一日のうちで、この時間にこれをやらなくてはならないなどという決まり事は一切ないのだ。
 いやなものを我慢してやり、本当にやりたいことを先延ばしにして生きることに、いったいなんの意味があるだろう。人はこの世に生れ落ちた瞬間から、死に向かって一歩一歩着実に近づいていくのだ。その時間の流れを止めることは、いかなる権力者にも、どんな金持ちにも、できやしない。
 過ぎた時間は二度と取り戻すことはできない。だからこそ、未来の自分が過去を悔やまぬために、いまこのときを自分の思うように力一杯生きてやるのだ。
 おれと同じ歳ほどの青年がギターをやさしく弾きながら、静かに語りかけるように歌っているロンドンのライブハウスで、おれは気持ちの奥底が熱く煮えたぎってくるのを覚えた。彼はしがらみの多い村の生活を捨てて、もっと自由な世界を飛び回りたいというようなことを切々と歌っていた。
 そんな青臭い歌は大人の胸にはもう響きはしないだろう。でも、そんな歌はおれらのような若者にしか歌えない。おれはまだ、何もかもわかりきった表情で、おとなしく世間一般の時間の流れに身を委ねてしまいたくはなかった。そうするには、まだ自分はあまりにも無知で、視野が狭くて、何一つ満足にできやしないと思う。
 親が喜ぶ大学に入るため勉強ばかりしてきた日々。自由に歌うことを勉強の邪魔になる有害なものとしてしかみることのできなかった両親のもとで送ったむなしい日々。そんな生き方は、もうおしまいだ。
 このフラットで、おれは毎日ギターをつま弾き、自分の歌を歌い続けた。韓国語だけでなく、英語でもいくつか詞を書いた。
作品名:尖塔のみえる町で 作家名:MURO