白翁物語 その3
「桃源寺でしたらここの川沿いに上がっていくと左手に駐車場が開けますから、その奥です」
「どうもご親切に」
幸先は良さそうであった。 物見遊山が目的ではないのでこれでいいのである。
「白翁、すごいな」
「美希ちゃん、感動しっぱなしだねぇ」
「だって、だってさ、あんなにきれいな海を見たのも、冬なのに青々とした山を見るのもこんな町並みを見るのも初めてだし、歩いていて暑いくらいだし、ほら、ここの足もとにだって草がこんなに」
「美希ちゃんは県外へ出るのは初めてかい?」
「そだよ。親父はしょっちゅう出張していないけど、私はたいてい家にいたからな」
「そうなんだ」
「あ、今まで訊かれなかったから言わなかったけど、うちは父子家庭だからね」
「美希ちゃんがお母さん代わりだったのか」
「そんな大層なことはやってないけど、貧乏なときのしのぎ方はよくわかっているぞ。もっとも、そのせいで物が捨てられなくて困る」
「ああ、それはよくわかるよ」
「どうしても捨てるに捨てられないものがあって近くの寺に持っていったら、若いのにお奇特な、なんて言われた」
「美希ちゃんに使われれば物もよろこぶだろうよ」
「さっきの人、小声でよくわからなかったけど、最初の方、何て言ってたの?」
「ああ、臨済宗のお寺だそうだ」
「臨済宗って、あの五山文学の?」
「そうそう、もともとは足利将軍が鎌倉時代以来の戦死者を弔ったのがはじまりだから、まあ、いそうな気がするな」
桃源寺の本堂の前の大銀杏の樹で、老婆とすれ違った。 墓地にほかに人はなく、遠目からでも沢山の戦死者の墓碑銘が見てとれた。
「美希ちゃん、ちょっと待っててもらえるかな?」
「どうした? 忘れ物か」
「そうそう、戦友に会うのに手ぶらではいかん、ちょっと酒を買ってくるよ」
「うん、それもそうだね。しかし、白翁、酒はわかるのか?」
「美希ちゃんよりはわかるさ。由比の酒と言えば神沢川の正雪だよ」
「じゃあ、ここで待っているからね」
「すまんね」
「酌み交わすコップも忘れるんじゃないぞ」
「ははは、俺よりも美希ちゃんの方が酒飲みみたいだな」
「ほら、行ってこいって。戦友を待たせちゃいかんだろう」
美希に押されるように白翁は酒屋へと急いだ。 美希には大銀杏の下でぼーっとして考え事をする時間が出来た。 何人か通りかかったが、皆この見慣れない制服姿の長髪の少女に会釈をして通り過ぎるだけで、不審には思われていないようだった。 空は視界の中にある限りでは雲ひとつなく、遠くに鳥の囀りさえ聞こえてきた。 こういう知らない、異次元の空間みたいなところもいいな、などと考えてみた。
「すまんな、ちょっと酒屋の主人と話して遅くなってしまった」 白翁が酒の小瓶を下げていつの間にか美希の目の前に立っていた。
「ああ、白翁が来たのに気がつかないなんて、相当私はぼけっとしていたようだ」
「声をかけるのが惜しくなるような雰囲気だったぞ。木の下に佇む美希ちゃんは絵になるなぁ」
「なんだ、私はぼけっとしてるほうが好みに合うか?」
「いやいや、美希ちゃんくらい美人になると何をしていてもよい」
「世辞はいいよ。男子から美人だなんていわれたことがない。もっともぶすっとしていてあまり笑わないせいもあるだろうが」
「いい収穫があったぞ」
「ほう、どんな?」
「静岡出身者は徴兵時に兵科によって3箇所に分かれたらしい。歩兵は静岡の34連隊に、野戦重砲兵は三島の連隊に、高射砲兵は浜松の連隊に」
「ここにいる人たちもそうなのか」
「だろうなぁ。まあ、ここから見える墓碑は皆星がついているだろう。ここでは兵隊にいたるまで個別に丁重に回向されているようだな」
「あ、右のほうの大きな碑文は合同のかな?」
「ああ、そのようだな。それにしよう。しかし、惜しかった」
「何がだ?」
「苗字しか聞いてなかったからな。この中の誰がそうなのかはわからん」
「でも、いずれにせよ同じ戦争を生きた人たちだろう」
「違いない。そういう意味では皆戦友だな」 二人は黙々と作業を始めた。美希は線香の束に火をつけ、白翁はコップに酒を注いだ。
「ずいぶんいい香りがする酒だな」
「正雪は銘酒だからな。酒臭くないだろう」
「ああ、果物のような香りがするよ」
「俺に半分線香をくれ」
「はいよ」
「不思議だな」
「ん?」
「俺が生き残ったのも、ここへ来たのもさ」
「それは私も同じだ」
「美希ちゃんも?」
「ああ、早まって死ぬようなことをしなくてつくづくよかったと思うよ」
「そう思ったことがあるんだね」
「誰だって1度くらいあるだろう」
「そうだな。同じ人間だからな」
「少々疲れたので、一息ついてもいいかな?」
桃源寺を出てから、二人は語り合いながらゆっくりと歩いた。 途中コンビニで買い食いをしたりスーパーをひやかして見たりしたが、港で聞いた名所にはたどり着かなかった。 それはそれで別にいいのだ。 二人で時間を共有するということを今日ほど楽しく感じたことはない。 だから、白翁の年も考えずにずっと歩き通しだったのだ。
白翁が腰掛けたのは古い家の玄関近くの石段で、丁度腰を下ろすのに都合よかったのだ。
「白翁、悪い、なんか無理をさせてしまったな」
「いやいや、ただの運動不足だから気にすることはない」
「大丈夫ですか?」 顔を上げるとブレザーの制服を着た少女が心配そうに白翁の顔を見ていた。
「ちょっと、歩き通しだったもので」
「どこから?」
「由比の港から」
「まぁ」 少女は驚いて 「ずいぶん遠くから歩いてきましたね。ここは蒲原ですよ」
「あ、そうなんですか?」
「とにかく、上がってください。私、ここの娘ですから」
少女はすぐに玄関のドアを開けると手招きした。
「心配しなくてもこの時間は誰もいないはずですから」
「お言葉に甘えてちょっとお邪魔します」
「どうぞどうぞ」 美希は白翁に肩を貸すようにして家に上がり、畳に横たえると座布団を二つ折りにして頭の下に入れた。
「すいません、見ず知らずの方に」
「気にしないで、ちょっと散らかってるけど。私は蒲原高校2年、あなたも同じくらいでしょ」
「はい、私も高2ですけど」
「じゃあ、丁寧な言葉やめようよ。私の事は時子って呼んで」
「私は美希。呼び捨てにしてね」
「うん、美希、私もそう。ちゃんとかさん付けされるのってあまり好きじゃないの」
「よろしくね、時子、でも偶然」
「私が通りかかったのが?だって、私は帰宅部だから」
「ううん、そうじゃなくて、私の知り合いの素敵な奥様に登紀子って方がいるの」
「へぇ、ちょっと待ってて、着替えてお茶入れてくるから」
「あ、気を使わないで」
「何言ってるの、気を使っているのは美希のほうでしょ?」
「うん、ありがとう。少し休ませていただくわ」
「どうもご親切に」
幸先は良さそうであった。 物見遊山が目的ではないのでこれでいいのである。
「白翁、すごいな」
「美希ちゃん、感動しっぱなしだねぇ」
「だって、だってさ、あんなにきれいな海を見たのも、冬なのに青々とした山を見るのもこんな町並みを見るのも初めてだし、歩いていて暑いくらいだし、ほら、ここの足もとにだって草がこんなに」
「美希ちゃんは県外へ出るのは初めてかい?」
「そだよ。親父はしょっちゅう出張していないけど、私はたいてい家にいたからな」
「そうなんだ」
「あ、今まで訊かれなかったから言わなかったけど、うちは父子家庭だからね」
「美希ちゃんがお母さん代わりだったのか」
「そんな大層なことはやってないけど、貧乏なときのしのぎ方はよくわかっているぞ。もっとも、そのせいで物が捨てられなくて困る」
「ああ、それはよくわかるよ」
「どうしても捨てるに捨てられないものがあって近くの寺に持っていったら、若いのにお奇特な、なんて言われた」
「美希ちゃんに使われれば物もよろこぶだろうよ」
「さっきの人、小声でよくわからなかったけど、最初の方、何て言ってたの?」
「ああ、臨済宗のお寺だそうだ」
「臨済宗って、あの五山文学の?」
「そうそう、もともとは足利将軍が鎌倉時代以来の戦死者を弔ったのがはじまりだから、まあ、いそうな気がするな」
桃源寺の本堂の前の大銀杏の樹で、老婆とすれ違った。 墓地にほかに人はなく、遠目からでも沢山の戦死者の墓碑銘が見てとれた。
「美希ちゃん、ちょっと待っててもらえるかな?」
「どうした? 忘れ物か」
「そうそう、戦友に会うのに手ぶらではいかん、ちょっと酒を買ってくるよ」
「うん、それもそうだね。しかし、白翁、酒はわかるのか?」
「美希ちゃんよりはわかるさ。由比の酒と言えば神沢川の正雪だよ」
「じゃあ、ここで待っているからね」
「すまんね」
「酌み交わすコップも忘れるんじゃないぞ」
「ははは、俺よりも美希ちゃんの方が酒飲みみたいだな」
「ほら、行ってこいって。戦友を待たせちゃいかんだろう」
美希に押されるように白翁は酒屋へと急いだ。 美希には大銀杏の下でぼーっとして考え事をする時間が出来た。 何人か通りかかったが、皆この見慣れない制服姿の長髪の少女に会釈をして通り過ぎるだけで、不審には思われていないようだった。 空は視界の中にある限りでは雲ひとつなく、遠くに鳥の囀りさえ聞こえてきた。 こういう知らない、異次元の空間みたいなところもいいな、などと考えてみた。
「すまんな、ちょっと酒屋の主人と話して遅くなってしまった」 白翁が酒の小瓶を下げていつの間にか美希の目の前に立っていた。
「ああ、白翁が来たのに気がつかないなんて、相当私はぼけっとしていたようだ」
「声をかけるのが惜しくなるような雰囲気だったぞ。木の下に佇む美希ちゃんは絵になるなぁ」
「なんだ、私はぼけっとしてるほうが好みに合うか?」
「いやいや、美希ちゃんくらい美人になると何をしていてもよい」
「世辞はいいよ。男子から美人だなんていわれたことがない。もっともぶすっとしていてあまり笑わないせいもあるだろうが」
「いい収穫があったぞ」
「ほう、どんな?」
「静岡出身者は徴兵時に兵科によって3箇所に分かれたらしい。歩兵は静岡の34連隊に、野戦重砲兵は三島の連隊に、高射砲兵は浜松の連隊に」
「ここにいる人たちもそうなのか」
「だろうなぁ。まあ、ここから見える墓碑は皆星がついているだろう。ここでは兵隊にいたるまで個別に丁重に回向されているようだな」
「あ、右のほうの大きな碑文は合同のかな?」
「ああ、そのようだな。それにしよう。しかし、惜しかった」
「何がだ?」
「苗字しか聞いてなかったからな。この中の誰がそうなのかはわからん」
「でも、いずれにせよ同じ戦争を生きた人たちだろう」
「違いない。そういう意味では皆戦友だな」 二人は黙々と作業を始めた。美希は線香の束に火をつけ、白翁はコップに酒を注いだ。
「ずいぶんいい香りがする酒だな」
「正雪は銘酒だからな。酒臭くないだろう」
「ああ、果物のような香りがするよ」
「俺に半分線香をくれ」
「はいよ」
「不思議だな」
「ん?」
「俺が生き残ったのも、ここへ来たのもさ」
「それは私も同じだ」
「美希ちゃんも?」
「ああ、早まって死ぬようなことをしなくてつくづくよかったと思うよ」
「そう思ったことがあるんだね」
「誰だって1度くらいあるだろう」
「そうだな。同じ人間だからな」
「少々疲れたので、一息ついてもいいかな?」
桃源寺を出てから、二人は語り合いながらゆっくりと歩いた。 途中コンビニで買い食いをしたりスーパーをひやかして見たりしたが、港で聞いた名所にはたどり着かなかった。 それはそれで別にいいのだ。 二人で時間を共有するということを今日ほど楽しく感じたことはない。 だから、白翁の年も考えずにずっと歩き通しだったのだ。
白翁が腰掛けたのは古い家の玄関近くの石段で、丁度腰を下ろすのに都合よかったのだ。
「白翁、悪い、なんか無理をさせてしまったな」
「いやいや、ただの運動不足だから気にすることはない」
「大丈夫ですか?」 顔を上げるとブレザーの制服を着た少女が心配そうに白翁の顔を見ていた。
「ちょっと、歩き通しだったもので」
「どこから?」
「由比の港から」
「まぁ」 少女は驚いて 「ずいぶん遠くから歩いてきましたね。ここは蒲原ですよ」
「あ、そうなんですか?」
「とにかく、上がってください。私、ここの娘ですから」
少女はすぐに玄関のドアを開けると手招きした。
「心配しなくてもこの時間は誰もいないはずですから」
「お言葉に甘えてちょっとお邪魔します」
「どうぞどうぞ」 美希は白翁に肩を貸すようにして家に上がり、畳に横たえると座布団を二つ折りにして頭の下に入れた。
「すいません、見ず知らずの方に」
「気にしないで、ちょっと散らかってるけど。私は蒲原高校2年、あなたも同じくらいでしょ」
「はい、私も高2ですけど」
「じゃあ、丁寧な言葉やめようよ。私の事は時子って呼んで」
「私は美希。呼び捨てにしてね」
「うん、美希、私もそう。ちゃんとかさん付けされるのってあまり好きじゃないの」
「よろしくね、時子、でも偶然」
「私が通りかかったのが?だって、私は帰宅部だから」
「ううん、そうじゃなくて、私の知り合いの素敵な奥様に登紀子って方がいるの」
「へぇ、ちょっと待ってて、着替えてお茶入れてくるから」
「あ、気を使わないで」
「何言ってるの、気を使っているのは美希のほうでしょ?」
「うん、ありがとう。少し休ませていただくわ」