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白翁物語  その1

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山崎元久という老人がいる。
御年82と自称しているが、誰も彼の本当の年齢を知らない。
夫婦は子を生さなかったため、10年前に糟糠(そうこう)の妻を失ってから彼は1人暮らしの老人である。

築50年にもなる小さな木造の家に1人暮らしを続けているのは、表向きは人付合いが嫌いだからホーム(作者注:老人ホーム)などには行かぬのだと言っているが、本当のところは妻との思い出が詰まったこの家を出て行きたくないのだ。
彼は若い頃の兵隊暮らしのおかげで炊事洗濯その他の日常生活にはなんら支障がなかった。
しかしながら、運転免許を返納してからというもの、外出が億劫(おっくう)になり、家に籠(こ)もりがちでめっきり体力も衰えて来ているのは自覚している。

彼は思うのだ。今まで潔く生きてきた。このまま体力がなくなって潔く死んでも誰も文句は言えまい。妻を弔う仏壇には自分が死んだ場合に葬儀費用に充てるようにと「葬式料」と筆書きした300万円入 りの金包みを置いてある。まあ、この老人の末期の水をとるような物好きがいたら家ごとくれてやるつもりでいる。

「じいちゃんいる?」

あの声はいつも水曜の放課後にボランティアの単位をとる為にと我が家にやってくる美希という娘だ。
俺(わしと自称すると年寄りの気分が濃くなるので俺と自称している)は他人を本来好まぬが、去年の春に初めてあの娘がやってきたときの言い草が気に入ったので彼女の好きなようにさせている。
そのときの彼女はいかにもあつらえたばかりという学校の水兵服(作者注:セーラー服)でやってきてこう言ったものだ。

「私さぁ、近所に住んでるんだけど知らなかったでしょ? 実はね、老人の世話をすると学校がボランティアの単位をくれるんだ。ほら、じいさんは一人なのにいつも小奇麗な格好で買い物に出てるでしょ。庭も手入れがいいしさ。だからきっと楽が出来そうだと踏んできたんだけど、学校出るまで付き 合ってくれるかなぁ?」
今時の若者はなどという気はない。
俺の若いときにも生意気なやつは男女を問わずいたものだ。
しかし、俺相手に最初から本音むき出しでかかってくるほどの度胸のあるやつは初めてだ。
だいいち、そのときの目は笑っていないどころか殺気をも宿していた。
世が世なら真剣での勝負でも負けることはないだろう。
俺はその娘が来た時にはしたいようにさせている。


「なんだ、いるじゃん」
いつもながら合鍵で勝手に入ってきて俺がいるのを確認するとさっさと台所へ行く。
すぐにインスタントのコーヒーを入れると砂糖もミルクも入れずにもって来て俺の前の机に置く。

「今度さぁ、お茶教えてよ」
向かいのソファーに座ると必ず彼女の方から用件を切り出す。

「抹茶かい? それとも煎茶かな?」

「抹茶の方」

「流派は表、裏、武者小路どれがいいかな?」

「飲む方法だけを教えてくれればいい」

「招かれる方であるなら、本来主人への礼をさえ失しなければよい」

「じゃなくて、茶碗をまわすとかいろいろあるじゃん」

「ああ、あれは茶碗の最も美しい部分を見せるように出してくれるから、その部分には口をつけないというだけのこと。そんなのは表面だけのこと」

「いろいろ決まりがあるんでしょ?」

「ああ、それぞれの流派が作った勝手な決まりごとがあるが、客として招かれたのならそんなのは気にしなくてよい。要は客が社長だろうが校長だろうが茶の席にはそんな肩書きなど一切ない、主人と客というだけの関係になる」

「それで?」

「主人がわかっている奴ならば、お前さんがどのような飲み方をしても気にせぬさ。まあ、菓子は茶を飲むまでに食っておくというくらいは覚えておいた方がいいが」

「そうなんだ」

「テーブルマナーの勉強と一緒で、作法ばかりにとらわれると一番肝心なことを忘れるよ」

「肝心なこと?」

「一期一会(いちごいちえ)」

「あ、なんか聞いたことがある」

「まあ、美希ちゃんにわかりやすく言えば、茶の湯を通して主人と美希ちゃんが同じ時間を共有する。その人とはもう会うことがないかもしれない。だからその短い時間だけでもお互いに相手を快くさせるために心を遣いあう。それさえ分かっていればよい」

「そっかぁ」



会えないかも知れないといった瞬間、俺の記憶は昭和の時代に跳んでいた。
ニューブリテン島の西側にあるツルブという土地の三角山といわれる猫の額ほどの山を連合軍と取り合いをしていた。

「おい、逓伝(ていでん)(作者注:命令を伝言していくこと)、小隊は0200(作者注:深夜の2時)攻撃開始、昨日第1小隊がいた陣地を回復する。支援射撃はなし、銃剣のみで突撃する。喚声(かんせい)は出すな」

「了解、逓伝する」

ふと後ろから声がした

「では我々は最後尾を追及する」

「おい、これはわが小隊だけの任務だ」

「馬鹿を言え、ここまで来て重機(作者注:重機関銃)を置いていく気か」
「貴様たち(作者注:この当時の貴様は今で言う「お前」や「あんた」に相当する言葉で乱暴な言葉ではない)は高射砲兵ではないか」

「高射も山はほしいのだ。だから貴様たちの迷惑にならぬよう最後尾を追及して側射陣地をとる。どうせ明るくなればアメ公は逆襲してくる。横っ面を思いっきり殴ってやるさ」

「ありがたい。小隊の軽機(作者注:軽機関銃)がやられてから火力に困っていたのは事実だ」

「歩兵と高射の協同作戦とは愉快じゃないか」

「貴様の原隊はどこだ?」

「浜松の高射連隊だ」

「俺は山崎という。貴様は?」

「服部だ。戦が終わったら遊びに来い。桜海老を山ほど食わせてやる」

「楽しみだ。さてと、俺は向こうの掩体に逓伝してくる」



「じいさん!」

はっとして目を開けると美希が怒った顔をしていた。

「私が来ているときくらいちゃんと起きていてよ」

「ああ、悪い悪い。どうも歳をとると思い出があふれてきてな」

「じゃあ、質問。今日は何曜日でしょう?」

「水曜、じゃないな。日曜日じゃないか」

「鈍感だなぁ、服で気がつかなかったの?」

「ああ、今日は制服じゃないね」

「ねぇ、この格好、男の人から見てどう思う?」

どう思うといわれても俺には女性の洋服に関する知識は欠落している。水色の上着と紺色のスカート、あと耳にピアス、首に金色のチェーンネックレスというくらいはわかるが、だからどう?と尋ねられても返事に窮するではないか。
「まあ、ハイカラでいいんじゃないか?」

「じいさん、洋風なもんは何でもハイカラなんだな」

「俺が若いときにはモダンといっていたよ」

「まぁいいや。きいた私が馬鹿だった」

美希はさっと立ち上がって台所へ行くと林檎をざくざくと切り出した。

「じいさん、朝は食ったか?」

「美希ちゃんが来る2時間前に食ったよ」

「げ、6時じゃん」

「老人は早起きでね」

「老人老人言ってると本当に老けるぞ」

「じゃあ、じいさんやじいちゃんと呼ぶのはやめてもらえぬかな」

「いいけど、何て呼ぶのさ?1年もそう呼んでたんだからダサイ名前だったらやだよ」

「ダサイ?」

「月並み以下ってこと」

「白翁、と呼んでもらえればいい」

「はくおう?」
作品名:白翁物語  その1 作家名:田子猫