珈琲日和 その14
渡部さんが店の扉を押して入ってきたのは、それから一週間後の日暮れ時でした。とは言っても、中途半端な気候をしているこの時期には、冬や夏のような夕焼けのようなものはあまりなく、なんとなく暗くなるような雰囲気の侘しい空気を黒い薄物のトレンチコート一杯に纏って、渡部さんはカウンターを横切っていつもの席に腰掛けました。
「今晩は。なにか召し上がりますか?」
僕はお水を出しながら、日が延びてしまったので気付きにくくなったけれど、もうすっかり夕ご飯の時間だなと思い、そう訊きました。
渡部さんはやはり疲れ切った顔をしていて、余程忙しかったと見えて、剃る時間すらなかったらしい無精髭が増々伸びて、まるで浮浪者のような風貌でした。
「ああ、そうだな。そう言われれば腹が減った。なにか軽く食べるか。簡単になにか作ってくれないか」
「かしこまりました」
店内には、Keiko Leeが夜の帳をゆっくりと引くように、しっとりと降り積もるように流れていて、なんとも穏やかな雰囲気でした。お客様は例の如く、飴色に使い込まれた万年筆を片手にこんな時間からうたた寝をしている窓際の作家の方だけでした。
「御陰様で、親父の葬式は、つつがなく終わったよ」
頬杖をついていた渡部さんがぽつりと零すように言いました。
「そうですか。何もお役には立てませんでしたが、お父様のご冥福をお祈り致します」
「ありがとう。今まで普通にいた人間が、いなくなるっていうのは何とも奇妙な感覚だよ」
「まぁ、そうでしょうね」
「生きてる間には頑固な上に怒ってばかりいて、いて欲しい時にはいつも仕事でいなくて頼りにならない煙たいだけの親父だったんだがな。まぁドクターとしての腕前は相当知れ渡ってた仕事人間だったからな、両立は難しかったんだろうさ。だから知っての通り、家庭の事は何もかも母さんに任せっきりにして、時々帰ってきては、わかりもしないくせに煩いばかりの嫌な親父だった。俺が親父の病院じゃなくて小児病院を選んでからは、増々険悪になってな、面突きつける度に殴り合いになるんじゃないかって程に殺伐とした雰囲気だったな。だから、正確には俺が医者として独り立ちしてからはマトモに話した事すらない」
「それなら、余計にお互いに心残りがあったんじゃないんですか?」
僕は出来上がったカフェモカをお出ししながら、思わず訊いてしまいました。
「いや。それはなかろうさ。向こうも仕事の事や、在り来たりな事は口にはするが、そう易々と胸の内を見せられるような人じゃなかった。俺も同じさ。変に近いものだから、意地ばっかり張っちまってな。結局、最後まで素直になんてなれやしなかった・・・」
親子仲が悪い事ばかりを強調して言っていたので、少々心配していたのですが、どうやらそれは僕の思い違いだったようです。どんなに仲の悪い親子でも、必ず繋がるなにがしらはあるものです。いえ。僕はそう信じたいのです。それが一方的なものなのか、お互いに想っている事なのか、将又すれ違いなのかはわかりませんが。後で後悔しても遅いのかもしれませんが、後悔しなければ気付けない事もたくさんあるのです。
「なんだ、ちゃんと、後悔してるんじゃないですか」
「後悔? ははは。果たしてそうなのかな? 俺にもよくわからんよ。遺産があったら迷惑料としてぶんどってきてやろうと思ってな、親父の遺品を整理してきた」
そう言って、渡部さんがカウンターの上に置いたのは、片方の翼が見事に折れて辛うじてぶら下がっているだけの随分と古い旧式の簡単な作りのラジコンでした。折れてしまった翼には、両方の傷口にも修繕しようと試みた接着剤やボンド等の跡が散々ついてはいましたが、どうやらどれも上手くいかなかったようなのです。その修繕跡は黄色く朽ち果てる寸前のものから、ごく最近つけたばかりのものまで様々でした。そして、その機体の裏には、おぼつかない感じの平仮名でゆたかと記名がありました。
「生き物の皮膚や内蔵をくっ付けるのは誰より得意なくせして、こういうものはいつまで経っても直せやしない。本当に 情けない 親父だよ」
渡部さんは、何故か心底安心したように、鼻と目を赤くしながら大袈裟なくらいに笑いました。それはちょうど、つまづいて転んでしまった小さな子どもに慌てて駆け寄った親に思いっきり抱きついた時のような顔でした。