珈琲日和 その14
霧雨は嫌いだ。
心配し過ぎる親からの必要以上に行き届いた干渉のように、認識出来るか出来ないか位細かな水滴が、気付かない程音もなく、しめやかに、けれど確実に付着していく。親の心配は果てがなく、子どもの自立心も果てがない。言わば水と油のようなもの。けれど、力関係には勝てず、どうしても濡れざる負えない。けれど、子どもはいつだって思っているのだ。どうしてもっと、自分を信じてくれないのかと・・・
彼が父が死んだ告知を受けたのも、霧雨が降りしきる少し肌寒い6月の午後だった。ようやく午前の診察が終わり、遅めの昼食を取る為に病院を出た矢先だった。
滅多に鳴らない家族からと設定されていた着信音が鳴り響き、その聞き慣れない音に一瞬何処で音がしているのか、何の音なのかが判別出来なかった。着信音はしつこく鳴り響くのをやめない。1分程まごついてから、やっと自分の皺くちゃになったシャツの胸ポケットに突っ込まれた携帯が音源だとわかって、傘を片手に慌てふためき通話ボタンを押した。
「・・・お父さんが、亡くなったの」
投げつけるようにして、それだけを言ってしまうと、切り捨てられたように受話器の向こうは沈黙に包まれた。トーンダウンしてはいたが、久しぶりに聞く母の声だった。
「・・・あぁ、 そっか」何故か喉が乾いてしまい、掠れたようなそんな言葉しか絞り出す事は出来ない自分に、少し驚いてしまった。動揺? まさか。あんな親父に。
「・・・お葬式、しなきゃいけないの。豊ちゃん、手伝ってくれるわよ ね?」
少しの間を空けて、母は何処か縋るように悲し気な声で訴えるようにして訊いてきた。その声は悲しんではいたが、鼻声ではないし、震えてもいなかった。ただ、不安が滲んでいるだけだった。どうして、わざわざそんな事を訊いてくるんだ。祖父も祖母もとっくに他界していて、家族は1人息子の俺しかいないじゃないか。彼は苛々とそんな事を思った。まるで、俺が頼まなきゃやらないみたいに。傘から落ちてきた寄り集まった雫に袖が濡れそうになったので、無造作にそれを振り払いながら、やけに視界がどんよりとしているのに気付く。濡れたアスファルトを、一歩一歩まるで確かめながら踏みしめるようにして、古ぼけた革靴でスローモーションのような速度で前に進んでいるのを靴の音で感じる。不意に鼻腔がハッカを嗅いだ時のようにつんと痛くなり、彼は思わず鼻を啜り上げた。何だこれは? すれ違う通行人に見られないように無意識に傘を深めに被る。
「豊ちゃん、泣いてるの? やっぱり悲しいのね?」母がすかさず訊いてくる。
「・・・別に、風邪引いてるだけだから」
泣いてなどいるわけがない。彼は出来るだけぶっきらぼうに答えた。母に感情を読み取られるのは、あまり気持ちが良いものではない。ましてやこんな時になんか。
「わかったから。都合つけて何とか帰るから、親戚には一通り通達しといてくれよ。又連絡するから。それじゃ」手早くそう言うと、一方的に通話を終了した。
彼は傘を持ち上げると、変に白味がかった空を斜めに見た。そそり立つ歪な積み木を重ねたような恰好のビル街に切り取られた空は、切れ切れになりながら、それでもしつこく霧を降らせ続けている。道行く人は傘をさしていない人もいるくらいに微かな雨。
ぼやける視界を擦るようにして意識を奮い立たせると、ふと眼前の踏切を渡る父と子の姿が飛び込んできた。少し先を歩く父親と思しき男は身なりのいい、こざっぱりとした恰好を堂々として恰幅も良く、後からついてくる息子と思しき男の子は痩せて頼りな気な足取りをして、それでも父の後を追っている。決して振り向く事のない父の背中を見失うまいとして、必死になって前屈みになりながら、まだ小さな両手で傘の柄をしっかりと握り締め、半ズボンから突き出た足を懸命に動かして、踏切の凸凹の段差を危なっかし気に乗り越えては歩いていく。けれど、やはり、その不安定な足取りでは予想した通りにふらけて転び、男の子は吹き飛ぶように枕木に投げ出された。その子は泣き声1つ上げはしなかった。だのに、先を歩いていた父親は即座にそれに気付いたらしく、音もなく息子の所まで戻ると、素早く息子を立たせて肩を支えながら何事もなかったかのように踏切を渡り切ったのだった。
その親子がとすれ違う時、父親が息子に諭すように言う低く静かな声が聞こえた。
「そんな事は、よくある事だ。泣くんじゃない」
彼が思わず振り返ると、角を曲がってしまったものか、そこには初めから存在しなかったかのように、もう親子の姿は何処にもなかった。彼は小さく溜息をついた。
やっぱり霧雨は嫌いだ。
「私は好きよ。霧雨。包み込まれるみたいで、優しい気持ちに なれるじゃない?」
「雨、嫌いなんじゃなかったっけ? それに、そういう話じゃないだろう?」
僕は思わず、彼女に突っ込んでしまいました。彼女は賢かったので、無関係な事を何も考えなしに口にする事等ほぼ皆無に等しかったのですが、さすがに身内が亡くなって複雑な心持ちでいる親友にかけてやるべき言葉じゃないだろうと思ったのです。彼女は僕の発言が気に入らなかったらしく、むっとした顔をして僕を一瞥しました。その隣で、当の渡部さんは気にするなと言って苦笑いをしながら、カフェモカを飲んでいました。
「とりあえず、今夜にでも出発するつもりだ。夜間は師匠に頼む事になるだろうが、師匠ももう歳だからな。あまり無理が出来ないから心配なんだが、致し方あるまい」
「そうですか・・・けれど」
「峰子さんは?」さっき僕に注意された事にまだ気分を害しているのか、彼女が僕の言葉を容赦なく遮り、無理矢理割り込んで渡部さんに訊いた。
「あぁ、連れて行きたいが、師匠の手伝いをして欲しいから、こっちに残していくつもりだ。どのみち煩わしい親戚共が集まるばかりの表面だけの葬式だ。俺1人だけで充分さ」
渡部さんはそう言って辛そうに笑いました。渡部さんの家が代々続く有名な医者の家系なのは知っていましたが、家が大きくなれば成る程、それなりに親戚付き合いも色々あるのだなと僕は想像してしまいました。いくら、ある一定の期間を一緒に過ごした同士とは言っても、ほぼ孤児と分類される環境で育った僕と彼女には、あまり関係ない事だったからです。ですので、大勢の中にいる孤独とはどういうものなのか、親からのプレッシャーがどんなものなのか等は、悲しいかな渡部さんの気持ちは全くわからなかったのは正直な所でした。故に僕から渡部さんにかけてあげられる言葉は見つかりませんでした。
「いいんだ。別に。親父とは、ガキの頃から上手くなんていった事なかった。俺が親父の理想に反する事ばっかして、後を継がせたいって思ってた親父の期待に答えもしなかったもんだから、相当に腹ただしかったんだろうさ。大人になってからは歪み合ってばかりだったよ。まぁ、親子だからって、なんでも上手くいくとは限らないさ。むしろ、近過ぎると、何も見えなくなるし、気付く事も出来なくなるもんだ。仕方ない事だな」
「・・・ですかね」僕は、そうなのかよくわからない曖昧な返事をしました。
「でも、そう思っているのはきっと、子どもの方だけよ」
心配し過ぎる親からの必要以上に行き届いた干渉のように、認識出来るか出来ないか位細かな水滴が、気付かない程音もなく、しめやかに、けれど確実に付着していく。親の心配は果てがなく、子どもの自立心も果てがない。言わば水と油のようなもの。けれど、力関係には勝てず、どうしても濡れざる負えない。けれど、子どもはいつだって思っているのだ。どうしてもっと、自分を信じてくれないのかと・・・
彼が父が死んだ告知を受けたのも、霧雨が降りしきる少し肌寒い6月の午後だった。ようやく午前の診察が終わり、遅めの昼食を取る為に病院を出た矢先だった。
滅多に鳴らない家族からと設定されていた着信音が鳴り響き、その聞き慣れない音に一瞬何処で音がしているのか、何の音なのかが判別出来なかった。着信音はしつこく鳴り響くのをやめない。1分程まごついてから、やっと自分の皺くちゃになったシャツの胸ポケットに突っ込まれた携帯が音源だとわかって、傘を片手に慌てふためき通話ボタンを押した。
「・・・お父さんが、亡くなったの」
投げつけるようにして、それだけを言ってしまうと、切り捨てられたように受話器の向こうは沈黙に包まれた。トーンダウンしてはいたが、久しぶりに聞く母の声だった。
「・・・あぁ、 そっか」何故か喉が乾いてしまい、掠れたようなそんな言葉しか絞り出す事は出来ない自分に、少し驚いてしまった。動揺? まさか。あんな親父に。
「・・・お葬式、しなきゃいけないの。豊ちゃん、手伝ってくれるわよ ね?」
少しの間を空けて、母は何処か縋るように悲し気な声で訴えるようにして訊いてきた。その声は悲しんではいたが、鼻声ではないし、震えてもいなかった。ただ、不安が滲んでいるだけだった。どうして、わざわざそんな事を訊いてくるんだ。祖父も祖母もとっくに他界していて、家族は1人息子の俺しかいないじゃないか。彼は苛々とそんな事を思った。まるで、俺が頼まなきゃやらないみたいに。傘から落ちてきた寄り集まった雫に袖が濡れそうになったので、無造作にそれを振り払いながら、やけに視界がどんよりとしているのに気付く。濡れたアスファルトを、一歩一歩まるで確かめながら踏みしめるようにして、古ぼけた革靴でスローモーションのような速度で前に進んでいるのを靴の音で感じる。不意に鼻腔がハッカを嗅いだ時のようにつんと痛くなり、彼は思わず鼻を啜り上げた。何だこれは? すれ違う通行人に見られないように無意識に傘を深めに被る。
「豊ちゃん、泣いてるの? やっぱり悲しいのね?」母がすかさず訊いてくる。
「・・・別に、風邪引いてるだけだから」
泣いてなどいるわけがない。彼は出来るだけぶっきらぼうに答えた。母に感情を読み取られるのは、あまり気持ちが良いものではない。ましてやこんな時になんか。
「わかったから。都合つけて何とか帰るから、親戚には一通り通達しといてくれよ。又連絡するから。それじゃ」手早くそう言うと、一方的に通話を終了した。
彼は傘を持ち上げると、変に白味がかった空を斜めに見た。そそり立つ歪な積み木を重ねたような恰好のビル街に切り取られた空は、切れ切れになりながら、それでもしつこく霧を降らせ続けている。道行く人は傘をさしていない人もいるくらいに微かな雨。
ぼやける視界を擦るようにして意識を奮い立たせると、ふと眼前の踏切を渡る父と子の姿が飛び込んできた。少し先を歩く父親と思しき男は身なりのいい、こざっぱりとした恰好を堂々として恰幅も良く、後からついてくる息子と思しき男の子は痩せて頼りな気な足取りをして、それでも父の後を追っている。決して振り向く事のない父の背中を見失うまいとして、必死になって前屈みになりながら、まだ小さな両手で傘の柄をしっかりと握り締め、半ズボンから突き出た足を懸命に動かして、踏切の凸凹の段差を危なっかし気に乗り越えては歩いていく。けれど、やはり、その不安定な足取りでは予想した通りにふらけて転び、男の子は吹き飛ぶように枕木に投げ出された。その子は泣き声1つ上げはしなかった。だのに、先を歩いていた父親は即座にそれに気付いたらしく、音もなく息子の所まで戻ると、素早く息子を立たせて肩を支えながら何事もなかったかのように踏切を渡り切ったのだった。
その親子がとすれ違う時、父親が息子に諭すように言う低く静かな声が聞こえた。
「そんな事は、よくある事だ。泣くんじゃない」
彼が思わず振り返ると、角を曲がってしまったものか、そこには初めから存在しなかったかのように、もう親子の姿は何処にもなかった。彼は小さく溜息をついた。
やっぱり霧雨は嫌いだ。
「私は好きよ。霧雨。包み込まれるみたいで、優しい気持ちに なれるじゃない?」
「雨、嫌いなんじゃなかったっけ? それに、そういう話じゃないだろう?」
僕は思わず、彼女に突っ込んでしまいました。彼女は賢かったので、無関係な事を何も考えなしに口にする事等ほぼ皆無に等しかったのですが、さすがに身内が亡くなって複雑な心持ちでいる親友にかけてやるべき言葉じゃないだろうと思ったのです。彼女は僕の発言が気に入らなかったらしく、むっとした顔をして僕を一瞥しました。その隣で、当の渡部さんは気にするなと言って苦笑いをしながら、カフェモカを飲んでいました。
「とりあえず、今夜にでも出発するつもりだ。夜間は師匠に頼む事になるだろうが、師匠ももう歳だからな。あまり無理が出来ないから心配なんだが、致し方あるまい」
「そうですか・・・けれど」
「峰子さんは?」さっき僕に注意された事にまだ気分を害しているのか、彼女が僕の言葉を容赦なく遮り、無理矢理割り込んで渡部さんに訊いた。
「あぁ、連れて行きたいが、師匠の手伝いをして欲しいから、こっちに残していくつもりだ。どのみち煩わしい親戚共が集まるばかりの表面だけの葬式だ。俺1人だけで充分さ」
渡部さんはそう言って辛そうに笑いました。渡部さんの家が代々続く有名な医者の家系なのは知っていましたが、家が大きくなれば成る程、それなりに親戚付き合いも色々あるのだなと僕は想像してしまいました。いくら、ある一定の期間を一緒に過ごした同士とは言っても、ほぼ孤児と分類される環境で育った僕と彼女には、あまり関係ない事だったからです。ですので、大勢の中にいる孤独とはどういうものなのか、親からのプレッシャーがどんなものなのか等は、悲しいかな渡部さんの気持ちは全くわからなかったのは正直な所でした。故に僕から渡部さんにかけてあげられる言葉は見つかりませんでした。
「いいんだ。別に。親父とは、ガキの頃から上手くなんていった事なかった。俺が親父の理想に反する事ばっかして、後を継がせたいって思ってた親父の期待に答えもしなかったもんだから、相当に腹ただしかったんだろうさ。大人になってからは歪み合ってばかりだったよ。まぁ、親子だからって、なんでも上手くいくとは限らないさ。むしろ、近過ぎると、何も見えなくなるし、気付く事も出来なくなるもんだ。仕方ない事だな」
「・・・ですかね」僕は、そうなのかよくわからない曖昧な返事をしました。
「でも、そう思っているのはきっと、子どもの方だけよ」