君へ
「しいて言えば、生きるとは――、そう、未来に生きる人が、いつか宇宙の果てを知ることができるようにするための連鎖だ。一人一人が命と夢をつなぐ礎だ」
少し違うかも、マスターはもっとロマンチックなことを言うに違いない、と僕は微苦笑した。そして、僕はもうマスターに教わることはなにもないのだろう、とそんな気がした。
それから一週間以上経った。僕は変わらずいつも通り仕事をしていた。平凡な毎日だったけれど、充実感はあった。そしてそんなある日、僕が書架の本を並べ直しているときのことだった。ふと、少し離れた場所に帽子を深くかぶった女性が立っているのを見たんだ。雰囲気ですぐに晴実だとわかった。彼女はゆっくりと顔を上げ、帽子の淵から目をのぞかせた。悲哀を含んだ寂しげな眼差しだった。刹那、僕は思いだした。槻木が、もしかすると晴実が僕の連絡を待っているかも知れない、と言ったことを。そして晴実の目は十分にそのことを告げているように思えた。晴実はしばらく僕を見つめたあと、落ちる枯葉のような哀感を含んだ緩やかさで、すうっと顔をそむけた。そして僕の視界から去った。僕はどうすべきか迷った。槻木が少し離れた場所から、「行けよ」という表情で僕を見ていた。でも、僕は行かなかった。もう、全て終わったことなのだから、と言い聞かせ。
そうすると、あとになって槻木が、「お前はひどい奴だ、女泣かせだ。見損なったよ」と言った。「もういいんだよ」、僕はそう言い、誓いの象徴ともなったバレリーナの彼女を想った。
僕は君を想うことを生涯での最後とし、他にはもう誰も想うことはない。君は今、なにをしているのか。僕は君を探さない。僕は君だけを想う。たとえ君が僕を忘れたとしても、僕は永遠に君だけを――。
目を閉じてそう想っていたその瞬間、僕の頬に重い衝撃が奔った。少しよろめき、しかしそれでも冷静に槻木を見た。槻木の身体は震えていた。それほどまでに晴実のことを想っていたのだと理解した。僕はなにも言わなかった。槻木の思いを感じたからだ。僕が少し自嘲的な笑みを浮かべると、彼はその場を去った。それからしばらくの間はお互い口も利かずにいて、とても気が重かったのだけれど、いつの間にか僕らはまた昼食を共にするようになった。
なにもない一年は早いものだった。あれ以来、「ジーザス」にも行っていない。マスターもきっとわかってくれているはずだと思った。
彼女のことは変わらず想い続けていた。店の近くを歩くたびに会いたくなる気持ちもあった。でも、僕はただ想うことだけをした。携帯電話にはメールは残っている。もしかすると、今でも心のどこかで彼女の返事を待っているのかも知れない。
たまに彼女が夢に出てくることもあって、夢の彼女はいつも微笑んでいた。目を覚ますと、いつも朝日が部屋に差し込んでいた。
彼女は僕に対して名前を訊くことはなかったし、僕を知りたいというようなそぶりも見せなかったけれど、一年経った今、それでよかったのだと思っている。彼女の中に僕が生き続けるかはわからない。でも、僕の中には永遠に彼女は生き続けるのだからそれでいいんだ。
永原が気を遣って僕に色々な誘惑をもたらそうとしたけれど、彼女を想うことでいとも簡単に打ち勝った。僕の前に、彼女以上に想うことの出来る存在は今後も現れないだろう。僕は、あれほど優しかった晴実でさえ突き放したのだから。
僕がまたいつも通り仕事をしていると、ふと、ある入荷されたばかりの雑誌が目に入った。僕は一瞬自分の目を疑った。彼女だった。その雑誌の表紙にはバレリーナの彼女が一面に大きく映っていたんだ。それは、バレエ雑誌が企画した特集記事のようだった。そこに映る、煌びやかな舞台で舞う華麗な芸術を表した一瞬の姿、そして、彼女の特徴のあるあのアネモネの瞳は、前にも増して一段と、この世のなにものよりも輝いていた。以前、彼女に対し、「君がバレリーナとしていっぱいの光を浴びて舞台の上で舞っているときに、僕がもし文壇の世界に上がることが出来たのならそのときは――そのときはぜひ握手の一つでも交わして欲しい――」とメールを送ったことがあった。でも僕は小説を書くことをやめていた。僕は雑誌を手にとり、彼女を誇りに思った。しっかりと夢に向かって進んでいるんだ、と不思議と嬉しい気持ちになった。僕は少し目を閉じ、深い脱力にも似た世界の中で、僕の体が静かに呼吸をしていることを感じると、それから彼女の映ったその雑誌を全て優しく書棚に並べてやった。もちろん、この店で一番売れる場所に。そしてまた、ゆっくりと、彼女を想い目を閉じた――。夏も終わりを迎えた八月三十一日、僕の心はこのとき全て解放された。
<了>