メビウスの穴
「これあなたじゃない・・?」
昼下がり、テレビで野球中継を見ていると、ソファの後方から妻の声が聞こえた。
「・・そうよ。やっぱりそう、あなただわ。」
彼女は念を押すように呟く。数秒のあいだ沈黙があり、そして、自分自身を納得させるかのように何度か頷いてから、こちらを見た。
「ちょっと、こっちへ来て、見てくれない?」
野球は折しも、二死満塁。僕は缶ビールをテーブルに置き、ため息を一つ漏らしてから、おとなしく妻の指示に従った。こういうとき、下手に反抗心を見せるべきではない。
「どうした?僕の密会写真がゴシップ誌にでもすっぱ抜かれた?」
冗談めいた僕の発言は無視された。彼女は手にしているアルバムにすっかり心を奪われている様子だった。彼女の見つめる先には1枚の古びた写真。屈んでいる彼女の上から覗き込むと、確かにそこには僕が写っていた。15年前の僕だ。大学生の頃、郊外にあるテーマパークでアルバイトをしていた。明治時代を再現したそのテーマパークで、僕は古くさい学ランに身を包み(それが仕事の制服だった)、修学旅行生を相手に園内をガイドして回っていたのだ。写真の中の僕は、女子高校生に囲まれ爽やかに笑っていた。自分でもほれぼれするくらいの好青年ぶりだ。
「なかなかイイ男だろ?ここでバイトしてたとき、けっこう女の子に人気があったんだぜ。けど、こんな写真が残ってたなんてな。すっかり忘れてたよ。」
すると、妻は表情を硬くして言った。
「違うのよ。」
「違うって、なにが?」
彼女の口調が更に重々しくなった。
「・・これはあなたのじゃなくて、私の写真なの。」
「君のって・・、どういうこと?」
いまひとつ状況が飲み込めないでいる僕に、彼女は「ほら、ここ見て、ここ」と、写真の右側を見るよう、人差し指で促す。前列の右から二番目。どこか見覚えのある仕草をした女の子が写っていた。首をわずかに傾け、気付くか気付かないかくらいの小さな微笑。それは自分の妻にほかならなかった。僕は呆然として、自分と彼女の昔の姿を何度も何度も交互に見た。首筋が、電流を流されたかのようにざわついた。
「こんなことって、あるのかしら。わたしたち、こんな昔に出会ってたのね。まったく、たちの悪い冗談みたいじゃない?」
彼女は自嘲するように低い声で笑い始めた。その笑いは酷いこと長く続いた。まるで毒キノコでも食べたみたいだ。僕のほうも、別の毒キノコのせいか、ざわつきが全身にまで広がってしまっていた。
ひとしきり笑って気が済んだのか、彼女が急に静かになった。僕を見て、苦笑いしながら観念したかのように肩をすくめてみせる。
「ほんと、笑っちゃうわよね・・。」
「まったく・・。」
本当に因果なものだ、と写真に目を戻し、僕は思う。二人が出会ったのは5年前(実際には15年前に出会っていたわけだが)、友人の恋人が自分の女友達を僕に紹介してくれたのがきっかけだった。趣味が合い、物事に対する考え方もどことなく似ていた。もともと人付き合いが苦手な僕にとって、一緒にいて楽しいと思わせてくれる彼女の存在は、特別なものに感じられた。いつしか二人は毎日会うようになり、どうせ毎日会うならばと、半年後には結婚。しかし、恋愛と生活は別物だった。かすがいになるべき子供もいない。
彼女はきょう、緑色で枠取りされた紙切れに判を押し、自分の荷物を段ボールにまとめているところだった。
妻はアルバムから写真をはがして掌にのせ、微かに首を傾げながら写真を眺め続けている。
「これって運命なのかしら。私たち、赤い糸なんかで結ばれてたらどうする?」沈んだ表情で彼女は言う。「またどこかで出会っちゃうのかしらね。」
「さあね。ただ・・二度あることは三度あるって昔から言うからさ。また出会うのかもしれない。」
彼女はため息をついた。「縁があるからと言って、いつまでも仲良くいられるってわけじゃないのね。」
僕もため息をつきながら答えた。「きっと因縁って奴だよ。仲が良いとは限らない。でも僕たちは決して仲が悪かったわけじゃない。喧嘩だって一度もしたことがない。結局、僕たちは二人とも、二人でいるより一人でいるのが好きなタイプだった。それだけだよ。」
「なんで結婚しちゃったのかしらね。私たち。」
「僕もよくわからない。たまたま寂しかっただけかもしれないな、二人とも。」
・・・「二人でいる理由があるのかしら。」彼女に何度も言われた台詞だった。はっきりとは言わないが、そこには「一人に戻りたい」という意味が読み取れた。僕もまた、そう感じていた。二人ですごす空間は、空気が薄れていくように、次第に息苦しいものになっていった。果たして一人で生きて幸せになれるのかどうか自信はなかった。しかし、一緒にいて息苦しさを感じるのならば、離れてみるほうがいいのだろう。他人と関係を持つことを苦手とする僕らの「結婚」という実験は失敗に終わったのだ。
写真を見続けて記憶の神経が刺激されたのか、脳裏にふと15年前の風景がよみがえってきた。白い洋館の前に群がる女子高生たちが見える。その少し離れた場所に、女の子が一人、丘の向こうに広がる空を見上げていた。口元が微かに動いている。何と言っているのだろうと気になり、僕はつい見とれてしまった。彼女は覚えているだろうか?
「あのときさ・・」
「うん?」
「・・あのとき、なんと言っていたんだ?」
「あのときって?」
「写真を撮る前さ、皆と離れて空を見つめていたろ?あのとき、君は何かをずっとつぶやいていたんだ。」
「あぁ・・。あなた、見てたのね。そうね・・ちゃんとは覚えてないわ。でも多分、」彼女の顔が暗く陰った。「助けて、とか、そんなことを言ってたんだと思う。」
「助けて・・って、何から?」
彼女は言いにくそうに顔を歪めた。「何って・・、クセだったのよ。そうしないと、自分っていう人間がどこかに消えてしまいそうで。生きるのが下手だったのね。いまもそうかもしれないけど。」悲しそうにふふっと笑って、彼女は続けた。「みんなに近づきたいんだけれど、どう思われるかばかり気にしちゃって、上手く近づけないのよ。怒らせたくないし、怒りたくもない。いつも感情を殺した別の自分を通して、外の世界とやりとりしてるって感じ。」
「僕もだ。生きるのが上手くない。たまに誰かに助けてもらいたくなる。」
「まさか。あなたは上手いことやっているように見えてたけど。一人でも平気な人間だと思ってた。」
「そういうふうに見せていただけさ。君だって同じだろ?僕は争いごとが嫌いだ。平和主義だからってんじゃなくて、たた自分を守りたいだけなんだ。傷つきたくないんだ。弱い人間だと思うよ、本当に。でもさ、これが僕なんだ。ほかの自分になる気はないよ。生き方を変えると、失うものだって出てくる。」
「冷静さ、平穏な暮らし、これまでに築いてきた周囲との調和ってとこかしら。」
「近すぎず、遠すぎずってのが重要なんだよ。僕たちみたいな人間には。夫婦という関係は、かなり近すぎたのかもしれない。」
僕を見つめる彼女の目に悲壮の色が見て取れた。僕の目にも同じものが映っていることだろう。まるで合わせ鏡のようだ。
昼下がり、テレビで野球中継を見ていると、ソファの後方から妻の声が聞こえた。
「・・そうよ。やっぱりそう、あなただわ。」
彼女は念を押すように呟く。数秒のあいだ沈黙があり、そして、自分自身を納得させるかのように何度か頷いてから、こちらを見た。
「ちょっと、こっちへ来て、見てくれない?」
野球は折しも、二死満塁。僕は缶ビールをテーブルに置き、ため息を一つ漏らしてから、おとなしく妻の指示に従った。こういうとき、下手に反抗心を見せるべきではない。
「どうした?僕の密会写真がゴシップ誌にでもすっぱ抜かれた?」
冗談めいた僕の発言は無視された。彼女は手にしているアルバムにすっかり心を奪われている様子だった。彼女の見つめる先には1枚の古びた写真。屈んでいる彼女の上から覗き込むと、確かにそこには僕が写っていた。15年前の僕だ。大学生の頃、郊外にあるテーマパークでアルバイトをしていた。明治時代を再現したそのテーマパークで、僕は古くさい学ランに身を包み(それが仕事の制服だった)、修学旅行生を相手に園内をガイドして回っていたのだ。写真の中の僕は、女子高校生に囲まれ爽やかに笑っていた。自分でもほれぼれするくらいの好青年ぶりだ。
「なかなかイイ男だろ?ここでバイトしてたとき、けっこう女の子に人気があったんだぜ。けど、こんな写真が残ってたなんてな。すっかり忘れてたよ。」
すると、妻は表情を硬くして言った。
「違うのよ。」
「違うって、なにが?」
彼女の口調が更に重々しくなった。
「・・これはあなたのじゃなくて、私の写真なの。」
「君のって・・、どういうこと?」
いまひとつ状況が飲み込めないでいる僕に、彼女は「ほら、ここ見て、ここ」と、写真の右側を見るよう、人差し指で促す。前列の右から二番目。どこか見覚えのある仕草をした女の子が写っていた。首をわずかに傾け、気付くか気付かないかくらいの小さな微笑。それは自分の妻にほかならなかった。僕は呆然として、自分と彼女の昔の姿を何度も何度も交互に見た。首筋が、電流を流されたかのようにざわついた。
「こんなことって、あるのかしら。わたしたち、こんな昔に出会ってたのね。まったく、たちの悪い冗談みたいじゃない?」
彼女は自嘲するように低い声で笑い始めた。その笑いは酷いこと長く続いた。まるで毒キノコでも食べたみたいだ。僕のほうも、別の毒キノコのせいか、ざわつきが全身にまで広がってしまっていた。
ひとしきり笑って気が済んだのか、彼女が急に静かになった。僕を見て、苦笑いしながら観念したかのように肩をすくめてみせる。
「ほんと、笑っちゃうわよね・・。」
「まったく・・。」
本当に因果なものだ、と写真に目を戻し、僕は思う。二人が出会ったのは5年前(実際には15年前に出会っていたわけだが)、友人の恋人が自分の女友達を僕に紹介してくれたのがきっかけだった。趣味が合い、物事に対する考え方もどことなく似ていた。もともと人付き合いが苦手な僕にとって、一緒にいて楽しいと思わせてくれる彼女の存在は、特別なものに感じられた。いつしか二人は毎日会うようになり、どうせ毎日会うならばと、半年後には結婚。しかし、恋愛と生活は別物だった。かすがいになるべき子供もいない。
彼女はきょう、緑色で枠取りされた紙切れに判を押し、自分の荷物を段ボールにまとめているところだった。
妻はアルバムから写真をはがして掌にのせ、微かに首を傾げながら写真を眺め続けている。
「これって運命なのかしら。私たち、赤い糸なんかで結ばれてたらどうする?」沈んだ表情で彼女は言う。「またどこかで出会っちゃうのかしらね。」
「さあね。ただ・・二度あることは三度あるって昔から言うからさ。また出会うのかもしれない。」
彼女はため息をついた。「縁があるからと言って、いつまでも仲良くいられるってわけじゃないのね。」
僕もため息をつきながら答えた。「きっと因縁って奴だよ。仲が良いとは限らない。でも僕たちは決して仲が悪かったわけじゃない。喧嘩だって一度もしたことがない。結局、僕たちは二人とも、二人でいるより一人でいるのが好きなタイプだった。それだけだよ。」
「なんで結婚しちゃったのかしらね。私たち。」
「僕もよくわからない。たまたま寂しかっただけかもしれないな、二人とも。」
・・・「二人でいる理由があるのかしら。」彼女に何度も言われた台詞だった。はっきりとは言わないが、そこには「一人に戻りたい」という意味が読み取れた。僕もまた、そう感じていた。二人ですごす空間は、空気が薄れていくように、次第に息苦しいものになっていった。果たして一人で生きて幸せになれるのかどうか自信はなかった。しかし、一緒にいて息苦しさを感じるのならば、離れてみるほうがいいのだろう。他人と関係を持つことを苦手とする僕らの「結婚」という実験は失敗に終わったのだ。
写真を見続けて記憶の神経が刺激されたのか、脳裏にふと15年前の風景がよみがえってきた。白い洋館の前に群がる女子高生たちが見える。その少し離れた場所に、女の子が一人、丘の向こうに広がる空を見上げていた。口元が微かに動いている。何と言っているのだろうと気になり、僕はつい見とれてしまった。彼女は覚えているだろうか?
「あのときさ・・」
「うん?」
「・・あのとき、なんと言っていたんだ?」
「あのときって?」
「写真を撮る前さ、皆と離れて空を見つめていたろ?あのとき、君は何かをずっとつぶやいていたんだ。」
「あぁ・・。あなた、見てたのね。そうね・・ちゃんとは覚えてないわ。でも多分、」彼女の顔が暗く陰った。「助けて、とか、そんなことを言ってたんだと思う。」
「助けて・・って、何から?」
彼女は言いにくそうに顔を歪めた。「何って・・、クセだったのよ。そうしないと、自分っていう人間がどこかに消えてしまいそうで。生きるのが下手だったのね。いまもそうかもしれないけど。」悲しそうにふふっと笑って、彼女は続けた。「みんなに近づきたいんだけれど、どう思われるかばかり気にしちゃって、上手く近づけないのよ。怒らせたくないし、怒りたくもない。いつも感情を殺した別の自分を通して、外の世界とやりとりしてるって感じ。」
「僕もだ。生きるのが上手くない。たまに誰かに助けてもらいたくなる。」
「まさか。あなたは上手いことやっているように見えてたけど。一人でも平気な人間だと思ってた。」
「そういうふうに見せていただけさ。君だって同じだろ?僕は争いごとが嫌いだ。平和主義だからってんじゃなくて、たた自分を守りたいだけなんだ。傷つきたくないんだ。弱い人間だと思うよ、本当に。でもさ、これが僕なんだ。ほかの自分になる気はないよ。生き方を変えると、失うものだって出てくる。」
「冷静さ、平穏な暮らし、これまでに築いてきた周囲との調和ってとこかしら。」
「近すぎず、遠すぎずってのが重要なんだよ。僕たちみたいな人間には。夫婦という関係は、かなり近すぎたのかもしれない。」
僕を見つめる彼女の目に悲壮の色が見て取れた。僕の目にも同じものが映っていることだろう。まるで合わせ鏡のようだ。