ピアス・マイ・ハート
いかに強靭な爪といえ、コンクリの壁にはかなわない。大きすぎる敵の前に、彼女は無力だった。傷ともわからぬような白いひっかき跡をとどめただけで、彼女の自慢の武器はすっかり刃こぼれして、当分戦えそうにはない。
その目に何が映しだされているのか、僕にはわからない。でも少なくとも、目の前の壁ではなさそうだ。ましてや、足元に転がるギターでも。そいつは彼女の慰めにはなれないらしい。いつも彼女の爪に身を任せているはずなのに、肝心なときに必要とされない。それはどんな気持ちだろう。物の気持ちなんて想像できるはずがない? どうだろう。いまの僕には、わかる気がする。
そうだ、僕は、ずっと恐れていたのだろう。彼女が富と名声を手に入れ、その才と実力にふさわしい新たな相棒を買って、あのおんぼろを売り払ってしまう日の来ることを。
僕を捨ててしまう日の来ることを。
だから僕は半端だった。荷物にしかなれない献身。自分の身を危険にさらすことのない献身。そんなものが、一体何になるだろう。彼女のため彼女のためと言って、結局僕は自分が一番かわいかったのだ。それを責めるほどの潔癖じゃないけれど、エゴを憎むほどの潔癖じゃないけれど、けれど僕は、あまりにも半端だった。どう転んでもエゴならば、せめて貫き通すしかないんだ。当たり前のことなのに。
ようやく決意する。覚悟を決める。貫く覚悟を、貫かれる覚悟を。
ドアを開け、僕は彼女のそばに膝を着く。
「ユミ」
間近で声をかけても、反応はない。こちらを見ようともしない。
僕はギターのネックをつかみ、引きずり起こした。
ハッとして、彼女が手を伸ばす。僕の手に触れる。すぐに引っ込もうとするその手を、僕は空いた方の手でとどめた。
「ユミ」
赤い目が、ゆっくりと、ためらいがちに僕を見上げる。
「東京へ行こう」
「 」
「 」
頼りない僕の背に爪を突き立て彼女は泣き伏せる。
僕は夜を楽しみに思う。いまも十分夜だけど、もっと深く狭く黒い夜の底が、やがて訪れるはずだ。服を脱いだとき、彼女はどんな顔をするだろう。どんな言葉を紡ぐだろう。想像するのは実は容易いけれど、あえてしない。楽しみは後にとっておくものだ。
ただ、いずれにせよそれはかけがえのないもので、僕にも彼女にも生み出せないものだ。僕は自分の背を見られない、だけど僕の背は僕のもので、彼女のものではない。だからそれは、僕と彼女でしか生み出せない。
「いいんだ」と僕は答える。「二人でしかできないこともある。それができるってことが、僕にはうれしい。だからいいんだ」
そう、彼女にできず、僕にできることがある。美容室に連れていってやったり、MCのネタ帳をつくってやったり。もちろん、こつこつ知人に売り込みをするのも忘れない。まだまだ何も知らないけれど、覚えきれないくらいたくさんあるはずだ。大事なのは、恐れないこと、ためらわないこと。彼女のため、だけじゃない。僕と彼女のために、できるかぎりのことをやってやる。
お前には負けてられないからな。
僕らの体に挟まれ、いまにも悲鳴を上げそうになっているおんぼろギターに、不敵な笑みを向ける。
頼りない僕の背に爪を突き立て彼女は大声で泣く。
頼りない僕の背を爪は切り裂きついに心臓を貫く。
すごく痛いけれど、なんとか笑ってみせる。
作品名:ピアス・マイ・ハート 作家名:遠野葯