ピアス・マイ・ハート
灰色の壁に爪を突き立て彼女は泣き伏せる。
いつからそうしていたのか、頬に浮かぶ涙の跡はほとんど消えかかっている。新しい涙がこぼれ落ちる心配はなさそうだ。酷使されていた水脈は、かりそめの休息に入っているのだろう。この状態を喜んでよいものか、僕にはわからない。涙だけが悲しみの、悔しさの表れではない。彼女は少しも声を上げないけれど、それはきつく噛みしめられた歯が必死に行く手を遮るからで、本当は泣いているのだ。僕にはわかる。いまこのときこの瞬間、彼女は世界中の誰よりも泣いている。
突き立てられた、彼女の爪。硬く雄々しい、猛禽のそれ。突き、刺し、裂き、削ぎ、殺ぐための武器。武器は何かと戦うためのものだ。誰かではなく、何か。生まれる時代が違えば、あるいはそもそも人に生まれていなければ、彼女の相手は明確な誰かだったに違いない。けれど彼女は人に生まれ、この時代に生まれた。生まれたからにはそれを受け入れるしかない。母親のお腹に戻ってハイやり直しというわけにはいかない。
そいつは時折、僕の背中に食い込む。正直、毎度ひやりとする。彼女が手加減をしてくれるからせいぜい赤く爪跡が残る程度だが、機嫌がよろしくないときなんかは、皮を断たれ、肉を裂かれ、そのまま心臓をえぐりとられはすまいかと不安になるほど痛い。だけど、そのときにあっても手加減をしてくれるというのが、僕には少し寂しかったりもする。彼女を満足させられていないのでは、という懸念ではない。それは懸念というか事実である。そうではなくて――
まあ、いい。それはいい。ともかく彼女はいま、泣いている。僕はドアの隙間から、その様子をうかがっている。いつまでもここでぐずぐずしているわけにはいかない。退くか、進むか。進むのにはそれなりの勇気がいる。けれどもちろん僕はそちらを選ぶ。
小さく呼吸をして、ドアを開き、彼女の名を呼んだ。
「ユミ」
数秒待ったが、返事も、反応もなかった。コンクリートとがらくたとタバコのにおいが、がらんとした部屋の中を漂っているだけだった。
聞こえていない、はずはない。いくら数十分前まで轟音の只中に身を置いていたとはいえ、他に何の音もないこの場所で、今の声に気づかないなんてことは。ということは、つまり。
「…………」
僕は結局立ち尽くすしかなかった。すぐにこの場を去るというのもあまりにそっけない。少なくとも恋人として、正しい態度ではない。といって、泣いている彼女をじろじろ眺めるわけにもいかない。仕方なく、彼女の膝からだらりと首を垂らしている、古びたエレキギターに目を落とした。
傷だらけの茶色いギター。華々しさとは無縁、かといって渋みがあるというわけでもない。そいつは、ただのおんぼろだ。傷も汚れも、プラスの効果は――ある種のヴィンテージ感を醸し出すような効果は――まったくない。ただただ客観的な価値を削るだけの代物だ。裏を返せば、それらは彼女と長い時を過ごしてきた証ではあるが、客はそんなものに目を向けてはくれない。僕もさして気には留めない(というか、物に嫉妬するのは我ながらさすがにどうかと思う)。彼女ですら、そんなことはどうでもいいのかもしれない。事実、はやく新しいのに買い替えたいとぼやくのを耳にする。つよがりだとは思うけれど。むしろつよがりであってほしい。本当はとても大切なものなのだ、まるで自分の子どもみたいに、それなしでは生きていけないくらいに――そうあってほしい。
けれども残念ながら、彼女がそれを態度で示してくれることはなかった。僕が出てこなければ、そいつの首ネック、もとい首根っこに縋りつくくらいのところは見せてくれたのだろうか。
そうは思いながらも、自分の選択を後悔はしなかった。答えを知るのが怖かったからではない、その答えはギターではなく、僕自身で確かめるべきことだと思ったからだ――と、精一杯つよがっておく。
彼女の様子に、変化はない。こちらを見ようともしない。つよがっているのだ。……そうだよな。きっとそうだ。
「外で待ってる」
腕時計を見ながら言った。十一時過ぎ。電車には間に合う。
部屋を出て、ゆっくりとドアを閉めた。
最後まで、彼女は微動だにしなかった。
珍しいことに、フロアにはごくわずかな例外を除いて誰も人がいなかった。いつもならば、出演者も客もごちゃ混ぜになって遅くまで呑んでいるのだが。静かだな、とは思っていたが、どうしたことだろう。
ちなみに例外とは、僕の友人と、このライブハウスの店長である。
「おっ」友人が足音に振り向き、ジョッキを高々と掲げた。「イエーイ。店長がサービスしてくれたんやわ。お前もなんか頼めや。ね、いいっすよね店長」
店長はグラスを磨きながら無言で微笑み返すが、困っているのは明らかだった。
「すいません、ご迷惑を」
「いや、いいよ。楽しい人じゃないか」
「イエー、店長サイコー!」
「いい加減にしろ」
「まあまあ」
余計に店長を困らせてしまった。
「すいません、ほんとうに」
「いいって。……ところで」店長は目をそらして言った。「ユミちゃんはどうだい?」
「……すいません、」
僕にはどうにもできなくて。
そんな言葉は紡げるはずもなく、馬鹿みたいにしばし口を開けていたが、やがて僕も目をそらした。間で、友人が無邪気に奇声を発している。
「そうか。うん、わかった。まだしばらくは開けとくから」
「すいません」
「……ったく」ふいに友人が言った。横目でこっちをにらんでいる。「何回謝れば気が済むんか。テメーはサラリぃマンかコノヤロー、もれとりあむをあんだと思っとんじゃ! しかもよりによってこんな場所でぇ、ひつれいやろうが、あやまれ!」
「すいませんでした」
「あやまんな!」
「…………」
実に迷惑な酔っ払いである。言いたいことはわかったけれども。
「何か飲み物つくってくるよ」と店長。
「え、いやそんな……」断ろうとする僕を、ふたたび友人がにらむ。「……そうですね。じゃ、ジンジャーエールで」
「酒やないんかい!」
店長は軽い笑いを残して奥に消えた。今度は困っている風でもない、素朴な笑いだった。そう聞こえた。
「……で?」
「は?」
「どうした」
「何が」
「ユミ」
「急に素に戻ってんじゃねえよ。酔ってなかったのか」
「うるへえ」
「どっちなんだよ……」
「で?」
「なんだよ」
「ユミはどうしたっつっとんじゃハゲ」
「……どうもこうもないよ」
「……ちっ。情けねー彼氏やな。かわりに俺がもらったろうか」
「三日で終わるよ」
「キレんなや」彼は笑った。「ま、でもお前に譲って正解やったってことか。二年も経つのにその様子ってことは」
「…………」
なんだかこそばゆい気持ちになって目をそむける。横でにやりと唇を歪める気配がする。くそ、殴りたい。
「……あ」
それを見つけたとき、思わず声が漏れた。
いつからそうしていたのか、頬に浮かぶ涙の跡はほとんど消えかかっている。新しい涙がこぼれ落ちる心配はなさそうだ。酷使されていた水脈は、かりそめの休息に入っているのだろう。この状態を喜んでよいものか、僕にはわからない。涙だけが悲しみの、悔しさの表れではない。彼女は少しも声を上げないけれど、それはきつく噛みしめられた歯が必死に行く手を遮るからで、本当は泣いているのだ。僕にはわかる。いまこのときこの瞬間、彼女は世界中の誰よりも泣いている。
突き立てられた、彼女の爪。硬く雄々しい、猛禽のそれ。突き、刺し、裂き、削ぎ、殺ぐための武器。武器は何かと戦うためのものだ。誰かではなく、何か。生まれる時代が違えば、あるいはそもそも人に生まれていなければ、彼女の相手は明確な誰かだったに違いない。けれど彼女は人に生まれ、この時代に生まれた。生まれたからにはそれを受け入れるしかない。母親のお腹に戻ってハイやり直しというわけにはいかない。
そいつは時折、僕の背中に食い込む。正直、毎度ひやりとする。彼女が手加減をしてくれるからせいぜい赤く爪跡が残る程度だが、機嫌がよろしくないときなんかは、皮を断たれ、肉を裂かれ、そのまま心臓をえぐりとられはすまいかと不安になるほど痛い。だけど、そのときにあっても手加減をしてくれるというのが、僕には少し寂しかったりもする。彼女を満足させられていないのでは、という懸念ではない。それは懸念というか事実である。そうではなくて――
まあ、いい。それはいい。ともかく彼女はいま、泣いている。僕はドアの隙間から、その様子をうかがっている。いつまでもここでぐずぐずしているわけにはいかない。退くか、進むか。進むのにはそれなりの勇気がいる。けれどもちろん僕はそちらを選ぶ。
小さく呼吸をして、ドアを開き、彼女の名を呼んだ。
「ユミ」
数秒待ったが、返事も、反応もなかった。コンクリートとがらくたとタバコのにおいが、がらんとした部屋の中を漂っているだけだった。
聞こえていない、はずはない。いくら数十分前まで轟音の只中に身を置いていたとはいえ、他に何の音もないこの場所で、今の声に気づかないなんてことは。ということは、つまり。
「…………」
僕は結局立ち尽くすしかなかった。すぐにこの場を去るというのもあまりにそっけない。少なくとも恋人として、正しい態度ではない。といって、泣いている彼女をじろじろ眺めるわけにもいかない。仕方なく、彼女の膝からだらりと首を垂らしている、古びたエレキギターに目を落とした。
傷だらけの茶色いギター。華々しさとは無縁、かといって渋みがあるというわけでもない。そいつは、ただのおんぼろだ。傷も汚れも、プラスの効果は――ある種のヴィンテージ感を醸し出すような効果は――まったくない。ただただ客観的な価値を削るだけの代物だ。裏を返せば、それらは彼女と長い時を過ごしてきた証ではあるが、客はそんなものに目を向けてはくれない。僕もさして気には留めない(というか、物に嫉妬するのは我ながらさすがにどうかと思う)。彼女ですら、そんなことはどうでもいいのかもしれない。事実、はやく新しいのに買い替えたいとぼやくのを耳にする。つよがりだとは思うけれど。むしろつよがりであってほしい。本当はとても大切なものなのだ、まるで自分の子どもみたいに、それなしでは生きていけないくらいに――そうあってほしい。
けれども残念ながら、彼女がそれを態度で示してくれることはなかった。僕が出てこなければ、そいつの首ネック、もとい首根っこに縋りつくくらいのところは見せてくれたのだろうか。
そうは思いながらも、自分の選択を後悔はしなかった。答えを知るのが怖かったからではない、その答えはギターではなく、僕自身で確かめるべきことだと思ったからだ――と、精一杯つよがっておく。
彼女の様子に、変化はない。こちらを見ようともしない。つよがっているのだ。……そうだよな。きっとそうだ。
「外で待ってる」
腕時計を見ながら言った。十一時過ぎ。電車には間に合う。
部屋を出て、ゆっくりとドアを閉めた。
最後まで、彼女は微動だにしなかった。
珍しいことに、フロアにはごくわずかな例外を除いて誰も人がいなかった。いつもならば、出演者も客もごちゃ混ぜになって遅くまで呑んでいるのだが。静かだな、とは思っていたが、どうしたことだろう。
ちなみに例外とは、僕の友人と、このライブハウスの店長である。
「おっ」友人が足音に振り向き、ジョッキを高々と掲げた。「イエーイ。店長がサービスしてくれたんやわ。お前もなんか頼めや。ね、いいっすよね店長」
店長はグラスを磨きながら無言で微笑み返すが、困っているのは明らかだった。
「すいません、ご迷惑を」
「いや、いいよ。楽しい人じゃないか」
「イエー、店長サイコー!」
「いい加減にしろ」
「まあまあ」
余計に店長を困らせてしまった。
「すいません、ほんとうに」
「いいって。……ところで」店長は目をそらして言った。「ユミちゃんはどうだい?」
「……すいません、」
僕にはどうにもできなくて。
そんな言葉は紡げるはずもなく、馬鹿みたいにしばし口を開けていたが、やがて僕も目をそらした。間で、友人が無邪気に奇声を発している。
「そうか。うん、わかった。まだしばらくは開けとくから」
「すいません」
「……ったく」ふいに友人が言った。横目でこっちをにらんでいる。「何回謝れば気が済むんか。テメーはサラリぃマンかコノヤロー、もれとりあむをあんだと思っとんじゃ! しかもよりによってこんな場所でぇ、ひつれいやろうが、あやまれ!」
「すいませんでした」
「あやまんな!」
「…………」
実に迷惑な酔っ払いである。言いたいことはわかったけれども。
「何か飲み物つくってくるよ」と店長。
「え、いやそんな……」断ろうとする僕を、ふたたび友人がにらむ。「……そうですね。じゃ、ジンジャーエールで」
「酒やないんかい!」
店長は軽い笑いを残して奥に消えた。今度は困っている風でもない、素朴な笑いだった。そう聞こえた。
「……で?」
「は?」
「どうした」
「何が」
「ユミ」
「急に素に戻ってんじゃねえよ。酔ってなかったのか」
「うるへえ」
「どっちなんだよ……」
「で?」
「なんだよ」
「ユミはどうしたっつっとんじゃハゲ」
「……どうもこうもないよ」
「……ちっ。情けねー彼氏やな。かわりに俺がもらったろうか」
「三日で終わるよ」
「キレんなや」彼は笑った。「ま、でもお前に譲って正解やったってことか。二年も経つのにその様子ってことは」
「…………」
なんだかこそばゆい気持ちになって目をそむける。横でにやりと唇を歪める気配がする。くそ、殴りたい。
「……あ」
それを見つけたとき、思わず声が漏れた。
作品名:ピアス・マイ・ハート 作家名:遠野葯