紫陽花の瞳
紫陽花は幻。
姉は雨に打たれ、たくさんの紫陽花が生きる庭でまるで風景のように溶け込んでいた。傘も差さず座り込んでいる。俺に背を向けたまま、ただ紫陽花をその目で見つめているのだろうか。憎らしい憎らしい、愛しい紫陽花を。
姉はいつも紫陽花の右目を隠している。誰の目にもつかないようにずっと隠している。だから俺も姉の瞳を直接見たのはもうずいぶん前のことのように思う。
美しい紫陽花の瞳は隠しておくのはもったいないと思うけれど、大切なものは隠しておくほうがよいのだとも思えた。美しいものは秘めて永遠に誰の目にもつかないところに閉じ込めておきたい。
俺もまた傘も差さずにただ姉の背を見つめていた。これはまるで俺たちの距離のようだなと思う。紫陽花となる、ならざるを得ない姉と、その姉の背を見つめる弟。
ああ、けれど姉はその美しい紫陽花の瞳を見ることは永遠にないのだ。
そのことに気付いて俺は急に姉が悲しく思えた。そしてまた自分は紫陽花の瞳という宝物を見ることができるという優越を感じた。やはり俺はとても愚か。
救いようなんてない。救いなんていらない。
雨は降り注ぐ。愚かな俺と、悲しい姉と、美しい紫陽花を濡らしながら。世界を悲しい色に染めてゆく。すべては滲んで溶ける。
姉は何も言わないまま、水でびしょ濡れだ。思えば俺はいつもその背中ばかりを見ていたような気がする。決して正面から見ようとはしなかった。それは俺の臆病さか、姉の心ゆえだったのかもう分からない…。
俺は姉を羨み、厭い、またその強さを怖れていた。
今、その背中に傘をさしてやりたいと思った。けれど、俺のこの手は雨を遮る傘なんて持たない。何にも持たないからっぽの手。
そして、俺は姉に近づいた。紫陽花の世界が目の前に広がってゆく。
鮮やかな紫陽花の色彩にくらくらと眩暈がしそう。やはり紫陽花は悲しくて静かな花だと思う。
姉は俺に気づいているのか、振り返ることはない。
しばらくして俺は呼びかけた。
「姉さん」
その言葉がこの口からこぼれるのがひどく不思議で、いったいどれほどその名を呼んでいなかったのかと思う。すべて自分で選んだことなのにその事実ががひどく悲しかった。
姉はゆっくりと振り返った。
俺は久しぶりにまっすぐ見た姉の顔を確かめるようにじっと見つめた。俺の声に振り返ることなんてないと思っていた。けれど、姉はこちらを見た。儚くもとても強い視線。
姉はその目を隠してはいなかった。
とても美しい紫陽花の瞳。
俺はやはり魅入られたようにその瞳に捕らわれる。なんて美しいんだろう、なんて綺麗なんだろう、眩しいんだろう、悲しいんだろう。瞳の水をたたえた瞳は雨の中の紫陽花のように息づいている。
瞳の世界は幻。俺を飲み込んで消してくれる気がする。鮮やかな夢幻の世界の悲しみに溶けて、美しく散ってゆく花。そう、花は散ってゆくから美しい。紫陽花は雨の花。雨の終わりが花の終わり。
俺は黒の影。花にはなれないけれど、せめて紫陽花の影となって散ってゆきたいと願う。
雨が俺の髪を頬を伝う。ぽたり、ぽたり落ちてゆく雫が熱を持つ。その温度に俺は自分が涙を流していることに気が付いた。
俺は泣いていた。
そうして俺は姉に手を差し伸べた。何も持たない空虚な手を嫌悪しながら。いったい何をするつもりなのか自分でもよく分からない。
口は勝手に言葉を紡ぐ。
「いらないならその目を俺にくれよ。俺が大切にして壊してやるよ」
差し出した手は雨に濡れたまま。ただ冷えていく。
「俺を頼れ。そうしたら助けてやるよ」
助ける? どうやって――。言いながらも俺は自分のありもしない言葉がひどく滑稽で醜く思った。俺はもうきっとどうにもならないほど哀しい、苦しい、そして愚かしい。
俺の涙は雨なのか、水なのか、命なのか、すべてはあやふやになっていく。
姉はただこちらを見ていた。俺の黒い瞳を見つめていた。その表情からは何も読み取れず、やはり姉と俺の距離は宇宙のように遠いのだと感じた。とても虚しい。
表情のない姉は鮮やかな紫陽花の人形のよう。儚く、美しく、悲しいから、大切にして、壊してしまいたい。
俺の世界はただ紫陽花の瞳に染まる。見えるものは紫陽花色だけ。すべては幻。
それから姉はそっと俺の指に触れた。雨に冷えた指先は、それなのに確かな熱を持っていて、俺は怖くなる。姉は生きている。生きている。
生きている。
目の奥にはまた熱が生まれた。
触れたのは一瞬のこと。指先に触れた手をまた離して、姉は俺の手をはたいた。静かに、けれど確かな力で。
そうして姉は立ち上がり去ってゆく。背を向けたままこちらを振り返ることはない。
俺は自分の手を見つめ、ただ立ち尽くした。
空を見上げる。薄暗い曇り空が世界を覆い、雨は終わりなく降り続く。
しとしと、しと。
俺は紫陽花になりたい。