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女郎蜘蛛の末路・蜘蛛捕り編(後)

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序 雨の音


一定のリズムで零れ落ちる雨音は、いつ聞いていても気分が良かった。
目を閉じて、その流れの中に身を任せれば、すべての穢れを落としてくれる。そんな気がした。
「今日はやけに、雨の降りが激しいわねえ」
そう言いながら、雛形八重(ひながた やえ)はどんよりと曇った夜空を見上げる。
天気が良ければ、空に瞬く星々を見ることが出来る場合もあるが、今夜の空は真っ黒な雲で空を覆い尽くして、それらの光をすっかり遮ってしまっていた。
「……」
ベランダから見下ろす夜の街は、綺麗なネオンに彩られていて、しかしそれがより一層の哀愁感を漂わせていた。
こうして夜の街を見下ろしていると、なんだか悲しい気分になってくる。
ベランダの手すりに寄りかかって、下を見下ろせば色とりどりの傘が目まぐるしく動き回っているのが見える。
マンションの8階という高さから見れば、それらの人々はある種の虫のようにも見えた。
得体の知れない虫たちが、自分の知らないところで動き回り、何かをしようとしている。それが八重にとっては、ひどく気持ち悪かった。
「……害虫どもめ」
このネオンの下では、今もたくさんの人々が各々の野望を胸に秘め、どうすればほかの人間を足蹴に出来るのかを考えて、意地汚く動き回っている。
例えるなら、それは蜘蛛だった。誰かが自らの巣にかかれば、容赦なくそれらをしゃぶり尽くす蜘蛛。
今こうして見下ろしている街の中にも、毒蜘蛛の巣は容赦なく張り巡らされ、獲物を待っているのだろう。
その毒牙にかかったが最期、牙に塗りこめられた毒によって、たちまちのうちに衰弱させられてしまう。……恐ろしい害虫には、用心しなければならなかった。
ほんの少しの油断でさえも、取り返しのつかないことになる。一度その手から零れてしまった物は、もう二度と帰ってこない……。
八重には、あの時の彼の言葉が今でもハッキリと思い出せた。
『君の前から姿を消すことを、どうか許してほしい。
もう、君と一緒にいるのは限界だった。
こうして、距離を置くのがお互いにとっても、そして子供のためにも良いことだと思う。
だからどうか、ぼくを愛しているのなら、ぼくらのことは探さないでほしい。
子供はきちんと責任をもって育てるから、どうか安心してくれ。
今までありがとう。』
その日、いつもの通りに帰宅をすると、こう書かれた置手紙だけが残され、夫と息子の姿は忽然と家の中から消えていた。
必要最低限の物だけを集め、家を出て行ったあとらしく、家具のほとんどは手づかずの状態のまま残されていた。
一体、どうして愛する家族たちは自分を捨てていなくなってしまったのだろう。
八重にはその理由がさっぱり分からなかった。なぜ、どうして自分が捨てられたのか、考えれば考えるほど分からなかった。
……なら、悪いのは自分の方ではない。自分を捨てて逃げた、あの優男の方なのだ。おおかた、別のところに新しい女でも作っていたのだろう。せっかく今まで尽くしてやっていたのに、なんて恩知らずな男だろう。
そう結論づけて、わなわなと怒りに燃える八重だが、実際のところの原因は彼女自身にあった。
といっても、彼女は手先も器用だし、その容姿についても美人と呼べるだけのスタイルは持ち合わせていた。少々、頭の回らない部分もあったが、そういう部分も含めて、愛嬌と捉えられるほどに世間から見た彼女はしっかり者だった。
だが、問題は彼女の内面にあったのだ。表面から見ただけでは気付かない、彼女の問題点。
雛形八重という女性は、昔から妄想癖のひどい人物だった。
些細なことでも、自分の都合の良い解釈に結び付け、周囲の人々を困惑させる。
それが災いして、幼少期の頃などは周囲から孤立することも多かったという。
しかし、それさえ除けば、むしろ普通の人よりも少しばかり器用なため、表面上から見れば彼女はいわゆるデキる女だった。
そんな彼女に好意を持ち、彼女が従業員を務める茶飲み処を訪れる客も少なくない。
かつての夫である和樹もそんな中の1人だった。
偶然訪れた店で、従業員として働く八重の姿に一目惚れ。そんな典型的な出会いはまさに運命と呼んでも良かったかもしれない。
しかし、プロポーズをした和樹以上に、この出会いを運命だと信じていたのはほかならぬ八重の方だった。
昔から、大した出来事でもないことを、"運命”だの"奇跡”だのと捉える彼女にとって、それは大して珍しいことではなかったのだが、和樹にとってはそうではなかった。
自分ももちろん、八重を愛してはいたが彼女はそれ以上の気持ちをこちらに向けていた。釣り合わず、彼女の方の器だけが傾く愛の天稟。
そんな結婚生活に限界が来るのも時間の問題だった。
理不尽なまでに束縛される私生活、あらぬ勘違いによる激昂。それらの小さな要素が網目のように繋がり、次第に和樹のことを追い詰めて行った。
子供のことを考え、和樹はなんとかそれらの事柄を我慢しようとしてきたが、そんな温厚な彼でも限界は限界だった。
これ以上、この女といれば何もかもがダメになってしまう。
そう、直感で悟った和樹は当時5歳だった息子を連れて彼女の元より逃げる決意をしたのだった。
それから10年余りが経った今、八重とはまったく連絡も何も取っていないため、法的にはまだ離婚は成立していない。
しかし、それでも下手に動きを起こして、居どころを知られる、なんてことになるよりははるかにマシだった。
八重も八重で、夫たちが自分の元から消えたばかりの頃は、彼の言葉を無視して、必死に探し回ったりしたものだが、10年という時が流れた今では、それらの炎はすっかり静かなものになっていた。
といっても、その炎はまだ完全に消えてしまったわけではない。とても細い、儚い炎になりながらも吹き付ける風を受けて、まだそれはゆらゆらと燃えていた。
いくら吹き消えてしまいそうなものだとしても、炎には代わりはない。ほんの少しのキッカケで、再び燃え上がることも十分に考えられた。
その危険性を考えたからこそ、和樹は八重との交流を一切絶ったのだ。
「……あら」
冷たい雫が頬を伝った。
最初は雨かとも思ったけれど、違った。
「……涙」
仕事など、何かに集中している時は良い。それらの物事に没頭していれば、全て忘れてしまえるのだから。
だが、こうして何もすることがなく、虚しい気持ちになった時、それらは一斉に襲い掛かる。
からっぽになってしまった、心の隙間を埋めるように、とめどなく。
一旦湧き上がった感情を鎮めるのは本当に困難だった。
後悔の念を涙という雫に変えて、外界へと吐き出し続ける。
いつ終わるともしれぬその苦行に身を晒し続けるのに、八重はもう疲れ切っていた。
「……どうして。どうしていなくなってしまったん」
手すりに身をもたせかけ、心の中で叫び声をあげる。
なんでなん!どうしてウチを置いていなくなってしもうたん!どうしてウチから何もかもを奪って行きおったん!
手すりを握る手に痛いほどに力が込められる。
開いた口からは、いつの間にか獣の咆哮にも似た叫び声が漏れていた。
もはや、心の内に獣を留めておくことは出来ない。