昨日だって遠い昔よ
A駅から近いところに、野本の恋人マリが暮らす洒落たマンションがあった。
五月のある日、午後八時、野本はそのマンションの前でマリを待った。しばらくすると雨が降りだした。野本は傘を持っていなかったので、しばらくするとびしょ濡れになった。三十分があった。マリは来ない。仕方なしに電話をした。が、電話にも出ない。そのまま帰ろうかと思ったが、待つことにした。
一時間後、ようやくマリが来た。
びしょ濡れとなった野本をみつけたマリは不思議そうな顔をして「どうしたの、そんなに濡れて、傘は持っていないの?」と尋ねた。
「君が八時と言ったから、ずっと待っていた。」と野本は今にも泣き出しそうな顔をした。
「泣きたいの?直ぐに涙を流すような弱い男は嫌いよ」
そうだ、野本は小さい頃から弱虫だった。泣きそうになると、いつも母親が抱いてくれた。少年になると、その弱さを隠すために、彼はよく暴力を振るった。弱い奴を見つけては喧嘩をした。女には、その甘いマスクで引きつけ、そして一旦、関係に結ぶと暴力で逃がさないようにした。しかし、マリとの関係においては、その関係が崩れていた。
野本の顔はいつしか怒りに満ちていた。しかし、マリは平然と見下していた。
「なぜ、直ぐに来なかった。ずっと待っていた」
「そんなに吠えるように怒鳴らないでよ。弱い犬ほどよく吠えるのよ」
「喧嘩を売るのか」と殴りかかるような恰好をすると、
「野蛮な人ね! 口で負けそうになると、いつも暴力を奮おうとする。でも、そんな脅しは通用しないよ。嫌なら帰ればいいのに」とマリは冷たく言い放った。
「僕は君のことが好きなだけなんだ」と野本は泣き出した。
野本は軽薄な女には飽き飽きしていた。マリのように、気高くて美しい女が好きだった。
「マリ、見捨てないでくれ。君のためなら何でもするよ」と雨に濡れた道路にひざまずいた。
「誇りのない男は嫌いよ。でも、今度だけは許してあげる。さあ、部屋に入りましょう」と野本の肩を揺すった。
扉を開いた。マリは振り向き笑みを浮かべて言った。
「いいこと。私の嫌がることはしないで。約束してくれる?」
野本はうなずくしかなかった。しかし、マリはそれを確認にもせず部屋に入った。野本がマリは部屋に入ったのは、一週間ぶりのことだった。
「マリの匂いがする」とまるでお腹を空かした子犬が餌を探して求めるように鼻をくんくんとさせた。
「嫌ねえ、あなたは育ちがいいのに、どうして品がないの?」
「別に……」と言葉を詰まらせた。
「わたしは、品性やデリカシーのない人は嫌いなの。知っているでしょう?」
「復讐だね」と野本は自嘲気味に言った。
「どういうことかしら?」
「約束の時間を一時間も遅れるなんて、君は僕がどんな気持ちであったか分かるか?」
「誰も待ってくれなんて、頼んでいないわ」とマリは厳しい顔をした。それはあからさまに拒絶の意味である。
「マンションの前で八時と言ったじゃないか……」
「でも、誰も頼まなかったでしょう? 待ったのは、あなたの意思でしょ?」
「ああ、君は頼んでいないさ。でも、君は僕の気持ちが分かっているはずだ」
「私は、あなたじゃないから、あなたの気持ちは分からない」
「君は僕を愛していないのか?」
「なぜ、あなたを愛さないといけないの」
「でも、何度も僕に抱かれた」
「それは、あなたがお金をくれたからよ」
「好きでもないのに?」
「どうして、私があなたを好きにならないといけないのよ。あなたは女心を分かっていない。金さえ出せば、何でも買えると思っている。そんなあなたを軽蔑していた。いいえ、それどころか憎んでいた」
「憎んでいた?」
「ええ、憎んでいたわ」
野本は泣き崩れた。
「僕はずっと、君のことを誰よりも愛していた。ただ、うまく、愛を表現できなかっただけだ」
マリもそのことは薄々、気づいていた。
「そんなのあなたの勝手よ。さあ、帰ってよ」とマリは怒った。
「帰れ? なんというひどい女だ。一時間も雨の中で待たせておいて、そして部屋の中に入れてもらえたと思ったら、今度は帰れと言うなんて……ひどい女だ!」
「ええ、そうよ、私はひどい女よ。仕返しよ」
「ねえ、マリ、そんな冷たいことは言わないでおくれ」
「私は女々しい男は嫌いなの。帰ってよ。帰らないなら警察を呼ぶわよ」
野本は仕方なく帰った。
数か月後、自分のマンションで野本が焼死した。事故死か自殺が分からぬままだった。
「野本が死んだね」とマリの若い恋人が試すように言った。
マリがどんな反応を示すか興味があったからであった。
「そうね」とまるで自分には少し関係のないかのようであった。
「自殺かもしれないと新聞に書いてあった」
「嘘よ」とマリは強い口調で言った。
「彼はサディストよ。サディストは自殺なんかしない」
マリの背中には、昔、野本に叩かれた跡があった。
「じゃ、誰かが殺した?」
「それもないでしょ。きっと事故よ。酔っ払いだから、きっとタバコの火の不始末よ」
マリはふと三年前の自分を思い出した。野本と出会った頃である。その頃はまだ穢れを知らない少女だった。野本に出会って大きく変わった。金のために媚びを売ることや自分の意思に反することも何のためらいもなくできるようになった。それが良かったことなのかどうか考えた。結論が出るとは思っていなかったが……。
「もう止しましょう。私にとって遠い過去の人だから」
「遠い過去? まだ三か月も経っていないよ」
「昨日だって遠い昔よ。確か、そんな歌があったわね」とマリは大きな口を開けて笑った。