水の器
「私は好きだなぁ。あじさいって綺麗だし。ちょっと瀬理奈に似てるかも」
そう言って彼女が小さく笑う。
私は自分自身を花と重ねるほど幸せな思考の人間ではない。でも、確かに陽光を求めない陰湿なところは少し似ているかも知れない。
「あっ、ネコちゃん!」
弾けるような優美の声。視線の先を見ると塗装が落ちたベンチの下で身を縮こませながら震えている子猫がいた。間違いなく野良猫だ。
優美が屈み込んでベンチの下を覗いている。
「病気を持っているかも知れないから触らない方がいいよ」
「大丈夫だって。ほらあ、ネコちゃん、こっちおいでぇ」
子猫に向かって猫なで声を出している彼女の丸まった背中を見下ろす。
小さくて弱々しいその姿が保護欲を掻き立てるのは理解できる。でも、アパート暮らしの優美がこの猫を飼うことはないだろう。無責任な愛情を注ぐくらいなら保健所にでも連れて行った方がましだ。何もしないまま「可愛い」と喜んだり「可哀そう」などと眉をひそめるのはあまりにも醜い。
この猫が死んでも私は悲しんだりしない。
優美が何度か呼びかけても子猫はその場から動こうとしなかった。人間を警戒しているのか、もう歩く力も残っていないのか。どちらにしても梅雨が明けるまで生きていることはないだろう。そして、その腐体がまた街を汚していく。
「もう行くよ」
私が歩き出しても彼女は屈んだまま猫を見つめている。そのまま置いていけば良かったのだけれど、なぜか私は立ち止まった。
もし、優美が死んだとしても私は悲しまないのだろうか。涙を流せないのだろうか。親友とまでは言えなくても、彼女が私にとって唯一の友人であることは確かだ。
この猫が死んだら彼女は悲しむのだろうか。
優美と一緒なら私も泣けるのだろうか。
「ネコちゃん、お腹空いてるでしょぉ」
彼女が猫を誘うための餌として手にしていたのは紫陽花の葉だった。
「その葉には毒があるよ」
私がそう言うと、一瞬の沈黙の後に背を向けたままの優美がいつもと同じ口調で答える。
「知ってるよ」
小さな身体を小刻みに震わせながら子猫がベンチ下から顔を出した。