かんざらし
迷うことはなかった。
由佳の情熱も伝わり、憧れの女性写真家のお眼鏡にかなって、カメラアシスタントとしての道が開かれようとしていた。
「だからその……。去年の秋に東京へ行ったのはあいつの面接があったからなんだ。その
時点では、もう顔合わせみたいなもんだって言ってたけど……」
健介がタバコの煙を大きく吐き出し、もう一度水を飲み干した。
遠距離恋愛という選択肢は由佳にはなかった。どっちつかずにならないためにも、由佳は写真に専念することを決めた。
由佳の上京に合わせるように、今年で定年退職を迎える彼女の父親は、母親と二人で地元静岡へ戻ることを選んだ。すべてを引っくるめても、健介にとってはタイミングが悪かった。
由佳が健介に別れ話を切り出したのは、武家屋敷通りのあの甘味処だった。
ある程度の顛末を察していた健介は、険しい表情を浮かべることなく、黙って由佳の話を最後まで聞き入れ、背中を押すように「がんばれ」と言った。
由佳は、かんざらしを手にしたまま、子どものように泣いていた。
引越の準備を終えた由佳が東京へ旅立つときだった。由佳は「時間に余裕を持って長崎空港へ行きたいから」と言い、あらかじめ健介が運転するダイヤに合わせて長崎空港へ向かった。由佳は終着駅の諫早駅まで運転席の後ろに立ち、カメラを片手に、また泣き始めた。
*
「まあそんな感じでね。ということで、しみったれた話はここで終わり!」
昼休みの時間が押し迫ると、時計をちらと覗いた健介が勘定を済ませる。
「この前、東京で奢ってもらったから、今日は俺がご馳走しちゃう!」
店を出ると、遠くまで陽炎が立ち上っているのが見て取れた。
結局、明後日が公休日という健介に合わせて、翌日の晩は岳史の実家に健介を招き、朝方まで二人は飲み明かした。気丈に振る舞っていた健介も、さすがに酒が入ると感傷的になったようで、気が付けば大の字になって朝を迎えていた。岳史の母が用意したタオルケ
ットを抱いたまま、大鼾をかいていた健介の寝顔を岳史は忘れられなかった。
東京へ戻る朝、「せっかくだから」と、岳史も健介が運転するダイヤに合わせて実家を後
にした。
ホーム近くの踏切音が聞こえると、ベンチに座っていた部活帰りの高校生が一斉に立ち始める。
黄色い鉄道が島原駅へ滑り込むと、岳史は読みかけの本を閉じた。島原鉄道が定刻通りに停車すると、運転席に座る健介が目で合図を返す。
岳史が運転席の後ろに立っていると、おじいさんの手を引っ張りながら男の子が歩いてきた。岳史の隣に男の子が来ると、島原鉄道はゆっくりと発進した。
「すごかねえ」
おじいさんが男の子に話しかけると、手すりを握りながら「うん!」と嬉しそうに返事をした。
車窓の向こうに見える有明海は凪いでいた。遠くに浮かぶ船に別れを告げるように、黄色い鉄道は進路を西へ向ける。
翌月、健介の元に一通の手紙が送られてきた。東京での近況が綴られた手紙に挟まれていたのは、島原鉄道の前で、大きく口を開けて笑っている運転士の写真だった。
(了)