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敬四郎、参る!!~花吹雪に散る恋~・其の一

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 二十一年もの間、放っておいて、ある日突然呼びつけられて〝将軍職を継げ〟と命じられても、素直に〝はい、そうですか〟と従えるものではない。
 あまりにも自分勝手な都合だけで物事を考えすぎはしないか、家連にとっては息子である我が身も泰膳も所詮は使い易い手駒にすぎないのではないか―、そんな気がしてならなかった。
 結局、家連から不承不承ではあったが、一年の猶予を与えられて泰膳の屋敷に戻った。
―予はもう歳を取りすぎた。頼もしい息子がいるというのに、いつまでも将軍職にしがみついておるわけにも参らぬ。それに、周囲の者たちも最近、とみに口煩そうてのう。万が一にも、尾張の連範なぞが後嗣になっては一大事よ。一日も早いそなたの覚悟を待っておるぞ。その気になった暁には、いつでも参るが良かろう。
 退出際のその科白に対しては、敬資郎は何も応えなかった。
 話の最中、面をわずかばかり上げてちらりとかいま見た将軍の貌は、流石に武家の棟梁らしく秀でていた。その鋭い眼光をひとめ見れば、家連が噂どおりの暗君でも凡庸な人物でもないことは敬資郎にも判った。
 泰膳の指摘どおり、誤解され易い人なのだろう。確かに上辺だけの素っ気ない態度や無表情ぶりからすれば、何事にも無気力、無関心と見られても致し方ないかもしれない。
 果たして、自分に覚悟の日が来るのだろうか。
 母お郁が亡くなってからというもの、再び刺客が敬資郎を襲うことはなかった。やはり、前尾張藩主徳川連久が切腹に追い込まれたことが最大の原因であったに相違ない。
 死んだ野犬の骸が門前に打ち捨てられたり、門内に投げ込まれるという実に子どもじみた脅しは何回かあったものの、その後、敬資郎の生命が表立って狙われるという事件は起こらなかったのだ。
 〝無能〟だと伝えられる家連、もしくはその血を引く子に将軍職について欲しくない連中は、連久切腹の命を下した家連の態度に執念のようなものを見たのではないか。八人もの子を失いながらも、いまだ我が子に跡目を継がせたいと願う家連の強すぎるほどの意思を。
 だが、敬資郎にとって、すべてのことは取るに足らなかった。そう言ってしまえば、ただ一人の将軍公子として、あまりにも自覚が足りなさすぎると謗られるかもしれない。それでも、彼は喪失の痛みに堪えられなかった。今でも、自分をしっかりと抱きしめたお郁の腕の強さが、小さな身体を包み込んだ温もりが忘れられない。
 あの細腕のどこに、そこまでの強さがあったのだと、儚げな風情の手弱女にそんな逞しさが隠れていたのかと、今でも信じられない。
 が、現実として、お郁は今わの際までも―いや、既に生命の焔が燃え尽きた後でさえも、敬資郎の身体を守るように庇うように両腕で抱きしめていた。
 たった一人の大切な人を失くした痛みに、彼の心はいまだに打ちふるえる。あの日、心に空いた穴は一生、塞がることはないだろう。
 母の薄い肩越しに見た三日月は、瞼にくっきりと灼きつけられ、けして消えない。
 敬資郎は細い月から視線をゆるりと動かす。その先には蓼(たで)の赤紫の花があった。
 どこからか種が飛んできて、自生したのであろうか、イヌタデが可憐な花をつけている。イヌタデは昔から女児のままごと遊びの際、〝赤飯〟として使われることで知られている。小さな紅い花びらを見たままに〝赤飯〟に見立てるのだ。
 小さな穂状になった花の形に特徴がある。折しも今は九月半ば、虫のすだく音色が草むらから盛んに聞こえてくる。
 ここは江戸の町外れ、閑静な武家屋敷が建ち並ぶ和泉橋町である。敬資郎の手前に、ひときわ宏壮な松平越中守の屋敷が映じている。ここら界隈は昼間でも人どころか犬の仔一匹通らないうら淋しい道だ。
 この道をしばらくゆけば、直に和泉橋という小さな橋に至り、その先は商店が軒を連ねる商人たちの町なのだが、ここ一帯は、その少し先の喧騒が嘘のように、いつでもひっそりと静まり返っている。
 月明かりに照らされた細い道が白っぽく浮かび上がっている。道沿いに長い築地塀が伸びていて、越中守の屋敷の塀越しに松が枝先を覗かせていた。細い危うげな月はその緑の葉が重なった向こうに見えているのだった。
 敬資郎は知らず、小さな吐息を零した。
 将軍家連との約束の期限、つまり次期将軍になるかどうかを決めるまでにあと七ヵ月。心は、まだ決まっていない。
 そのときだった。若い女の悲鳴が聞こえ、敬資郎はハッと我に返った。こういう場合、敬資郎は頭で考えるよりもまず、身体が先に動く。今もすぐに声のした方に向かって、全速力で駆け出していた。
 彼の読みは外れてはいなかった。小さな橋―和泉橋のたもとで若い娘が数人の男たちに取り囲まれていた。
 男たちの身なりは悪くない。いずれもがまだ二十代前半ほどで、敬資郎とさして変わらない年頃だろう。それぞれ上物の着物に羽織りをまとい、粋に着流している格好はどう見ても大店の放蕩息子に見える。
 見かけはごく真っ当な町人のはずなのだが、何しろ眼つきが良くない。特に長身で細面の男―薄い唇の右上に小さな黒子がある―が曲者のようだ。どの男もそうなのだが、こいつはとりわけ取り巻く空気が荒んでいる。険のある眼や、殆どあるかなきかの薄い唇はいかにも酷薄そうで、小狡い狐を連想させる。
 敬資郎はまなざしに力を込め、恐らくはこの集団の頭領格であろうその男を睨んだ。
「たかだか、か弱い女一人に大の男が大勢で襲いかかるとは、ちったァ、恥というものを知りなよ、兄さん方」
 こういう手合いは相手の脚許を見るのが得意である。自分より弱い者、立場の低い者にはより高圧的に強く出るが、逆に強者、高位の者には恥も外聞もなく低姿勢になるのだ。
 なので、敬資郎は遠慮は無用とばかりに、冷えたまなざしと声音で彼らを威圧してやった。
 案の定、黒子の男を除いた他ノの三人は、敬資郎のまなざしに一瞬、気圧されたように怯み、互いに顔を見合わせる。中の一人が〝駿太郞、武士を相手に立ち回りなんかやっても、どうせ勝てっこないぜ〟と背後から袖を引く。
 が、駿太郞と呼ばれた長身の男は感情の読み取れない双眸を真っすぐに敬資郎に向けてくる。
―この男、ただのワルじゃない。
 瞬時に、直感がそう告げていた。
 単なる大店の極道息子なら、少々痛い目に遭わせて懲らしめてやれば良いが、こういう手合いはかなり厄介だ。うっかりと拘わってしまえば、蛇のような陰湿さ、執念深さで報復しようとするだろうし、復讐を遂げるためなら、何だって―人殺しすら―やるし、手段を選ばない。
 だが、と、敬資郎は男たちに囲まれ、震えている女を見た。ここで女を見棄てて一人、おめおめと逃げるなぞ論外だ。
「その娘から手を放せ」
 敬資郎の凄まじい気迫に呑まれた男たちが一歩後退(あとずさ)る。
 敬資郎は彼らとの間合いを慎重に計りながらもまた、一歩踏み出した。が、娘の傍らにいる駿太郞だけは他の連中と違って一歩も退こうとしない。かえって向かってくる敬資郎を威嚇するかのように烈しい視線で睨(ね)めつけてくる。
「生憎と、この女は俺たちが先に見つけた獲物でな」