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夢の唄~花のように風のように生きて~

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遠く愛しき恋の歌
たゆまずめぐる紡車
もつれてめぐる夢の歌

―そう、幼い頃に乳母が子守唄代わりに歌って聞かせてくれた唄は、こんな唄。うとうとと夢見心地で眠りの国へと落ちてゆく私の耳に、優しく響いていた乳母の歌声。いつか大きくなったら、私もこんな恋をしたいと思っていた。父と母のように身を灼くような烈しい恋に落ち、一生涯かけて心から愛せる男(ひと)とめぐり逢いたいと、と―。








 お千香が己れの身体の秘密を知ったのは十二を過ぎた頃のことだ。その歳になれば、誰もが思春期を迎え、男女はその各々の身体の特徴をおぼろげながらに意識するようになる。
 お千香は、自分がまさか、幼い頃から夢見ていたような幸せな結婚を生涯望めぬとは、その歳になるまで一度たりとも考えたことがなかった。その秘密を知った時、お千香は愕然とした。いつか大きくなったら、乳母が子守唄で聞かせてくれたように、心から好きになった男性(ひと)とめぐり逢い、恋をしたいと幼い頃から夢見ていた―、その夢が無惨にうたかたのように消えた瞬間だった。

《悲劇の始まり》

 その夜は雪になった。
 お千香は先刻から仏間でボウとしたまなざしを父の位牌に向けていた。
 お千香の父美濃屋政右衛門が突如として倒れ、ついに意識を取り戻すこともなく亡くなったのは、つい三日ほど前のことだ。日頃から心ノ臓を患っていた父は、このときが来るのをあらかじめ覚悟はしていたようだ。掛かり付けの町医者からも次に発作を起こせば生命の保証はできぬと告げられていた。
 お千香もまた、父の寿命が長からぬことは知っており、だからこそ、父が手代頭の定市と自分を急きょ婚約させたのだとも理解していたつもりだ。美濃屋は江戸でも一、二を争う大店の呉服太物問屋である。政右衛門はその五代目で、お千香は政右衛門のたった一人の娘であった。
 定市は十の頃から美濃屋に丁稚として奉公に上がり、以来十年余にわたって忠勤を励んできた。影陽なたのない働きぶり、いささか生真面目すぎるほどの律儀さを政右衛門は気に入り、ずっと眼をかけて一人前の商人(あきんど)に仕立て上げるべく育ててきた。
 思えば、その頃から既に政右衛門には、ゆくゆくは定市をお千香の婿にという心づもりがあったのだろう。むろん、お千香はそんなことを想像だにしたことはなかった。ただ、物心ついた頃から、自分をじいっと見つめる定市の粘着質な眼を怖いと子ども心に感じたものだった。
 まるで、ねっとりとまとわりついてくるような定市の眼がただただ怖ろしく、嫌いだった。廊下ですれ違った際、ふと定市が思い詰めたようなまなざしを自分に注いでいることに気づくと、お千香は逃げるように歩き去った。
 だから、父から定市を将来の良人にと命ぜられた時、お千香は瞬時に嫌だと思った。美濃屋には定市の他に似た年頃の若い手代は何人もいるのに、何故、あの男でなければならないのかと疑問に思った。が、政右衛門は定市の真面目な働きぶりや誠実な人柄を高く評価しており、美濃屋の身代と大切な娘を託せるのは定市をおいてはおらぬと早くから決めていたようだ。
 むろん、惚れた相手とは添えぬ運命(さだめ)の我が身だととうに諦めている身であれば、相手はどこの誰でも良いと半ば投げやりな気持ちもあった。しかし、そんな風に自棄になってさえ、あの男―定市だけは嫌だと思った。では、定市のどこが気に入らないのかと問われれば、お千香には、はきとした返答はできない。
 本能的な嫌悪感と恐怖、強いて言えば、あのハ虫類を彷彿とさせるような陰気な眼であろうか。狙った獲物はどこまでも執拗に追いかけてゆくような酷薄さを宿した瞳だ。父の言うように、同じ年代の若い男のように遊廓で遊んだり、羽目を外したりすることはなく、極めて真面目だし、男ぶりも悪くはない。だが、笑い声を立てることもなく、いつも一人でひっそりとしている様子は、何となく不気味でさえあった。
 だが、父の命に逆らうことはできない。それに、定市は単に商人、次の美濃屋の主として考えれば、確かにふさわしい男かもしれなかった。放蕩で身代を食いつぶすこともなく、ひたすら商売ひと筋に六代目としての責務を果たそうとするに相違ない。自分さえ我慢して、我が儘を言わなければ、すべては難なく運ぶはずだ。お千香はそう思うから、父にこの縁談を嫌だとは微塵も口にしなかった。
 お千香が承諾すると、政右衛門は定市とお千香を奥まった居間に呼んだ。政右衛門からお千香との結婚を言い渡されても、定市の表情には殆ど変化はなかった。ただ深く頭を垂れて、〝私ごとき者には勿体ないお話でございます。謹んでお受けさせて頂きます〟と応えたのみであった。
 次に政右衛門は、お千香を見、それから定市を見た。
―それから、お前に一つだけ言っておかなければならないことがあります。むろん、お前はお千香との縁談を承知したのだから、この秘密を打ち明けたとて、何の不都合もないと思うが。
 そう前置きして、政右衛門は続けた。
―この娘(こ)には、さる事情があって、たとえ祝言を挙げても、夫婦の交わりは叶わぬのだよ。
 このときだけ、定市が控え目に口を開いた。
―その理由とやらを今ここでお伺いしてもよろしうございましょうか。
 政右衛門の穏やかな眼にその一瞬だけ不穏な光がよぎった。やり手と評判の商人らしい計算高い顔だ。
―残念ながら、それは言うことはできない。何故なら、このことはお千香の引いては、この美濃屋の体面にも拘わることだからです。しかし、それでは、お前さんも得心がゆかぬだろうから、ここは、ただ身体が弱いからということにしておこうか。
―健康上、問題がおありだということでございますね。
 定市は感情の読み取れぬ瞳で政右衛門に問い返した。
 政右衛門がおもむろに頷く。
―まあ、そういうことです。お千香の身体が丈夫でないのは、お前もよく知ってるだろう。こんなか弱い娘には到底、子を産むことなどはできません。
―それでは、子を作らぬようにすれば良いのでは?
 定市が珍しく食い下がると、政右衛門は眉をひそめた。主人の不機嫌さをすぐに認めた定市は頭を下げた。機を読むのに聡い彼は、ここでこれ以上主に逆らわぬ方が良いと判断したのだ。
―判りました。旦那さまのお言いつけは肝に銘じて、生涯お守り致します。
 それで、この話はもうおしまいとなった。
 その半月後には正式に結納が交わされ、更に数日後、政右衛門が倒れた。そして、かねてからの言いつけどおり、意識のない政右衛門の枕許でお千香と定市の仮祝言が簡素に行われた。
 政右衛門は自分に万が一のことがありしときは、定市とお千香の仮祝言を行うことを書状にしたためていたのである。仮祝言の二日後、政右衛門は逝去した。発作を起こして倒れてから、わずか数日後のことである。それから、お千香の周辺は俄に慌ただしくなった。