アトリエの恋
第1章 カドミウムレッド
そこは駅ビル五階の画材専門店だった。彼はそこでほかの買い物客の姿を見た記憶がない。阿坂浩樹は随分昔からその店に出入りしているのだが、その事実に気付いたのは、そのとき自分以外のもうひとりが入ってきたからかも知れない。その小柄な娘は切羽詰まった表情で何かを探し始めていた。そして、間もなく阿坂の手にしているものを覗きこんだ。
「あっ!カドミウムレッド。わたし、その絵具を買いに来たんです」
阿坂が手にしている一本のチューブ入り油絵具を指差して、娘が云った。
「私もそうですよ。多分、これだけ買って帰ります。これが必要なら、ほかに在庫があるかどうか、店の人に聞いてください」
「聞いてみます。でも、あなたが持っているのが最後のだという予感が……」
紺色のワンピースの娘は大きな眼で阿坂をにらみつけながら云った。
阿坂は間もなく絵筆を一本選んでから、レジの場所へ向かった。
「やっぱり、それが最後ですって」
娘は阿坂を睨みながらことばを投げつけた。
「すみません。発注してるんですが、なかなか入ってこないんです」
見慣れた初老の店長は、白髪に手をやりながら補足した。
「私は明日紅葉を描きに行きますから、これが絶対に必要なんです」
その絵具は紅葉を描くための絵具と云っても良いような、鮮やかなオレンジ色の絵具である。
「わたしは絵の教室でマリーゴールドの絵を描いているんです。先生からカドミウム・レッドの絵具を必ず買って来いって、命令されたんです」
娘の表情は間違いなく切実な想いを物語っていた。阿坂の心は動きつつある。