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我的愛人 ~何日君再来~

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第二章



 私山口淑子は満洲に生まれた。
 父の教育方針の下、幼いころから中国語を叩きこまれて、普段の会話はもちろん、何かを考える時でさえ違和感無く中国語が溢れてくる。時々私は自分が日本人であるということを忘れてしまうこともあるくらい。それを喜ぶべきなのか、それとも悲しむべきなのかはわからないけれど。
 でも一つはっきりしているのは、この広大な中国にいると国籍なんてどうでもよくなってくるという事だ。日本人もいればもちろん中国人もいる。朝鮮人もモンゴル人も。今は行方が知れないけれど、私の大切な親友はロシア人だ。皆同じ人間として一つの国の中で存在している。国籍や人種に対して異常なまでの執拗なこだわりを抱いているのは、おそらく日本人だけなのではないだろうか。

 私は幼少の頃に李家・藩家と二つの家の名目上の養女となった。家族同士が親戚のように親しくなると、義理の血縁関係を結ぶという中国の慣習に従ってのことで、その際に私は二つの名前を頂いた。ひとつは李香蘭、そしてもう一つは藩淑華。それは本名とともに大切な私の名前でもあり、分身だ。

 子供の頃はとても幸せだった。撫順・奉天で何不自由なく育ち、父はかねてから私を政治家の秘書にしたかったらしく(今思うと何て人生って皮肉なの!)私は14歳の時に父の友人である北京在住の政治家・藩氏の許に留学することとなった。藩家に寄宿して、北京一流のミッションスクールに通って3年も経った頃、義父の藩氏は天津特別区市長に任命されて北京から天津に赴任することとなった。私達──一緒に生活していた第二夫人とその娘達──は相変わらず北京で暮らしていて、天津の市長公邸を訪ねるのは夏休みの時だけ。

 その17歳の夏休み。
 私の様子伺いということで、たまたま市長公邸に一緒に滞在していた父の許に、ある日とあるパーティーの誘いがあった。父は社会勉強のいい機会だからと言って、私が同伴することを許してくれた。もちろん大喜びしたのは言うまでもない。何故なら少女だった私はパーティーという、未知で魅惑の大人の世界の扉を早く開きたくて仕方がなかったから。
 私にとっておとぎの国にも等しいその会場の名は東興楼。天津に開店したばかりの豪奢な格式高い中国料理店。車でそこに辿り着くまで父と何を話したのかさっぱり覚えていない。それほど私は興奮し、胸を躍らせていた。

 聞きしに勝る広くて豪華な店内。調度品は総て一流品。紅い見事な織りの絨毯、金色に輝くシャンデリア。テーブルには高級料理が色とりどりに並び、慣れないお酒の匂い、バンドの生演奏。うっとりするほど素敵な紳士・淑女や派手に着飾った令嬢や子息、それを満足そうに見守る数多の親たち。中には日本の将校もいて、皆それぞれが私にとって眩く、まるで別世界の住人たちに思えた。

 私は緊張のあまり父の傍から離れることが出来ず、想像以上の美しさ、きらびやかさに何度も何度も感嘆のため息を洩らしていた。父はそんな私をにやにやして嬉しそうに見るばかり。
 そうこうするうちに、一際賑やかな一群の中から一人の男性がこちらに向かって来るのが見えた。父よりも少し背が高いだろうか。輝くばかりの自信に満ち溢れ、タキシードを着こなす洗練された姿は、初心な私の胸の鼓動を早鐘のように打たせるのに充分だった。その人は父と面識があるらしく、穏やかな笑顔と流れるような中国語で挨拶していた。
「娘の淑子です」
 父が私を紹介し、私はひきつる笑顔で中国語であらためて自己紹介をした。
「日本人だったのですね。あまりにも旗袍が良く似合っているので中国人かと思っていました」
「ありがとうございます。私は日本人ですが中国生まれの中国育ちなので、まだ一度も日本には行った事がありません」
 私が中国語でそう答えるとその人は笑いながら言った。
「僕と同じようなものだね。僕は中国生まれの日本育ち。日本はいいところだよ。是非一度行ってみるといい」
 今度は流暢な日本語。優しい笑顔を向けられて私の顔がみるみる上気してゆくのがわかる。
「淑子って言ったよね? 偶然だな。僕の日本名も芳子。川島芳子だ」
「芳子……さん?」
「お兄ちゃんでいいよ。こんな格好しているからね。君の事はヨコチャンと呼ばせてもらうよ。僕も昔そう呼ばれていたから」
 その人が女性だったことになにより驚いた。なでつけた断髪、優雅な物腰、凛々しい顔立ちに少し掠れた低い声。一見したところ男性にしか見えないけれど、なるほどよく見るとぬけるような白い肌のきめこまやかさ、輝く唇。私なんかよりとても女らしいと正直感心してしまった。私はひとめでこの人から醸し出される妖艶で且つ倒錯した魅力の虜となってしまって、何故男装なんかしているのかという疑問はいつの間にかどこかに消し飛んでしまっていた。

作品名:我的愛人 ~何日君再来~ 作家名:凛.