我的愛人 ~何日君再来~
第一章
「児玉さん、お願いがあるの」
初めてのワンマン・ショウ。既に満員の客席をステージ袖から覗いて私は言った。満洲映画協会の専属女優である私の日本でのマネジャー兼護衛の児玉さんは、何ごとかと首を傾げて怪訝そうな眼差しを私に投げた。
「一曲目を元通り『何日君再来』に変更できないかしら?」
「いまさら何を言ってるんだ! もうあと何分かで開演なんだぞ?」
児玉さんのいつものポーカーフェイスがこの時ばかりはさすがに崩れた。大きく見開いた目がありったけの怒りと非難を込めて私を責めている。
「あの歌は昨日のリハーサルで今の時局あまりふさわしくないからと、軍の奴等に禁止されたばかりじゃないか」
「そこを何とかお願い。軍部の方達が一体何よ。この曲は人気があるのよ。歌えば日本のお客様はきっと喜んでくれるに違いないわ。夢にまでみた祖国の、この日劇で歌えるのよ。是非この曲を一番先に歌いたいの。皆さまに聴いて頂きたいの。児玉さん、どうか無理を承知でお願い。いざとなったら私が満映を辞める覚悟で一切の責任を取りますから」
私は意を決しておもむろに跪くと頭を思い切り床に擦りつけた。周りのスタッフに小さなざわめきの声が上げる。
「やめてくれ! 早く顔を上げるんだ」
児玉さんはそのがっしりとした両腕で私をいとも簡単に抱き上げる。そして尚も両手を胸元でしっかりと組んで俯いている私をしばらく見つめた後、苦渋に満ちた声で言った。
「……わかった……何とかしよう」
「ほんとうに?」
私は顔を上げて児玉さんを見た。
「ああ……だけど今からオーケストラや上層部の奴等を上手く説得できるかどうかはわからない。スコアの調達もできるかどうか……『何日君再来』が歌えるかどうかは曲の前奏で君が判断してくれ。もし説得に失敗したら従来通りの『馬車は行く行く、夕風に』だ」
「わかったわ」
児玉さんは絶対承知してくれると確信していた。彼は何だかんだと言っては結局いつも私の我儘をきいてくれるのだ。だからこそ私は彼に絶対的な信頼を置き、そして感謝もし、彼の言うとおりの仕事をこなしているのだ。児玉さんはぐずぐずしてはいられないとばかりに、血相を変えて疾風のようにその場から居なくなった。私は走り去る後ろ姿に向かって心の中で手を合わせ何度も謝罪した。
そして容赦なく開演5分前のベルが鳴る。
この曲をどうしても歌いたかった。あの人に聴いてもらいたかった。
一体今はどこにどうしているのだろう? あの時の女学生が私と知ってここに来てくれているだろうか?
自分を見失うなとそっと諭してくれた優しいあの人。今でこそ、その言葉の重みが私に圧し掛かる。
思い出すのは哀しげに翳る白い横顔。手の冷たさ。私の記憶に残る懐かしい面影。
4年前の1937年。私はまだ17歳。「李香蘭」になる前のほんの子供だったあの夏に私とお兄ちゃんは出逢ったのだ──。
作品名:我的愛人 ~何日君再来~ 作家名:凛.