我的愛人 ~何日君再来~
第九章
「そのつもりで今夜来てくれたんだろ?」
……自分に向けられたいつもの優しい笑顔。それを受けるのが辛かった。あの人はお見通しなのだ。私の心なんか。私が切り出せない別れをあえて自分から告げてくれたのだ。
「お義父に叱られて……お兄ちゃんにお別れを言い次第北京に帰れと言われたの」
「……そうだね。君はまだ学生だ。お義父様の言うとおり北京に帰ってしっかり勉強したほうがいい」
「お兄ちゃん……」
私は堪らなくなって俯いてしまった。そんな私をあの人は流麗なステップで相変わらず上手くリードしてくれる。私の手を握る、白い手袋の上からでも確かに伝わる、親しみ慣れたその冷たい手の感触をずっと感じていたいと哀しいほど思った。
「ヨコチャン、満洲はこの先どうなるか分からないから……どうかこれだけは覚えておいて」
軍服に身体を預けて踊りながらすすり泣く私。その耳元に熱い吐息が降りかかった。
「人に踊らされては駄目だよ、絶対。君は『李香蘭』である前に山口淑子なのだから。君は誰かの為にではなく、自分自身の為に在るのだから。僕のようになっては駄目だ」
涙で崩れた化粧をものともせずに私は顔を上げてあの人を見つめた。穏やかな陽射しのように注がれる大好きな笑顔。人を好きになるのに男も女も人種も国籍も関係あるだろうか? 私はあの人が大好きだった。けれどあの憂いをはらんだ双眸は私を通していつも別の誰かを見ていた。優しい微笑みも私を通して他の誰かに注がれていた。そのことを私は最初の出逢いの時に気づいてしまっていた。けれどそれでも構わない。大人の世界の入口に立ち、素敵な案内人のあの人と夢のようなひと夏を一緒に過ごせたこと、それだけで充分だったのだ。
「『素敵なあなた』」
ふいに言われて私は怪訝な顔を向けた。
「この曲の名前」
「なあんだ、私のことかと思ったわ」
私は冗談めかして言った。
「まあ……半分はそうかな。皆が見ているの、気がつかない? 今夜のヨコチャンすごくきれいだよ」
「お兄ちゃんて気障ね」
「よく言われる」
澄ました顔で言いのけるあの人。泣いていた烏がもう笑ったように私は思わず吹きだした。本当に憎らしいくらい私のあやし方が上手いのだ。
「短い間だったけれど楽しかった。さようなら。元気で」
「お兄ちゃんも」
「自分の足でしっかり歩いて行くんだよ」
私はありったけの笑顔でそれに応えた。
そして曲が終わり、灼熱の私の夏も同時に終りを告げた。
作品名:我的愛人 ~何日君再来~ 作家名:凛.