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悪魔の証明

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実際は俺の存在は彼らの目には入らず、単に彼を取り巻く環境の小さな要素でしかないのだが、そんな風に被害妄想をしてしまう。
量子力学の話を高校の理科の先生に聞いたのだが、原子レベルの話になると、「存在しているし存在していない」状態というものがあるらしい。
シュレンディンガーの猫のパラドックスなんてものがあるけど、「存在しているし存在していない」状態は俺の世界にも通用する話だった。

授業開始時間は過ぎているはずなのになかなか先生は来ない。
おそらく五分くらいの遅刻はいいだろうと思っているのだろう。
しかし、俺にとってはそれは、大罪に値する。
無論俺も遅刻はするが、それとこれは別である。
その五分とこの五分は大きく異なる。
過ぎるというより止まって感じる。

やっと、社長出勤で決して悪びれることもなく先生がやってきた。
程なくして授業が始まる。
最初にこの講義の諸注意を話す。
どうやら出席はとらないらしく、また“ご丁寧に”授業プリントも最初に配布する。
つまり授業がめんどくさい人は出なくてもいい。
出なくても単位が取れるというのだ。

高校時代に先生や先輩から大学は遊べるところだと聞いていたが、それは本当のようだ。
俺らはそれでいいとして、大学教員はなぜ授業をするのか。
難しいことは分からないが、どうやらこれでいいらしい。

その日の授業が終わった。
なんとなく、大学のイメージがつかめてきたかもしれない。
つまり、高校時代から先生や先輩から言われてきたものが本当の大学生活らしい。
この人生の春では、今までの“演技”ではなく、“全力で楽しむ”必要があるようだ。
寧ろ、それができない者は非リアという汚名を着せられなくてはならないようだ。
今まで演技をすることで、なんとかしのいできたが、今回はそれではいけないらしい。
誰かが言っていたが、非リアになると大学生活が捗らなくなるらしい。
つまり、リア充たちはお互い協力して一つの単位を集めるし、楽な授業の情報を共有する。
非リアは一方それらを一人でこなすので、単位を落とすこともあるらしく、最悪は退学をもって青春を終えるらしい。
退学というのは、両親が汗水流して払った学費をどぶに捨てるのと同義だ.
両親からしたら、手塩にかけて料理した料理をさらに盛り付ける時にこぼしてしまうようなものだ。
俺には兄がいるが、兄と同じように味付けをしたのにもかかわらず、俺だけを捨てることになる。
味付けをするときは分からなかっただろうが、もしその時に俺が料理の一部に含まれないことを知っているなら、俺だけ最初から味つけをしなかっただろう。
それだけの悪行なのだ。

帰りの電車の中でmixiを開いてみる。
そこでは俺より早めに大学生活に慣れ始めた友人たちの“全力で楽しむ”姿が更新されていた。
「ディズニーなう」と満面の笑みの写真と一緒に投稿されていた。
平日でも大学生は遊びにけるらしい。

こういうソーシャルメディアについて「誰が誰と遊んでいるかとか、いまどこにいるかとか全く興味がない。ただの時間の無駄だ」なんていうことを言ってる人がいた。
しかし今の俺にとってそれは大学生活の生きる教科書で、そこから“全力で楽しむ”ための何かを学ばねばならなかった。
やっと俺の中で桜が芽吹き始めた気がした。
小春の風が寒いというより清々しいと感じられた。

 新歓で会った友人からどんどん派生して、同じような友人がどんどん増えていった。
それにつれ、俺のTLは賑やかになり、参考資料が増えていった。
友人と遊んだりするのは実に愉快だった。
しかし、それは並みの愉快さだった。
楽しいことは楽しいが、自分が妄想の中で成立させていた大学生活があまりにも美しすぎた。
教科書の中の挿絵は、実際よりも美しいとでもいうのか。

三島由紀夫の『金閣寺』で主人公が父から話を聞かされ憧れていた金閣寺を自分の目で見てしまった時の心情と同じなのだろうか。
すると、俺は最後、この青春を焼き払うことで、生きる糧を得るのだろうか。
自分の何かしらの不足をそれで埋めるのだろうか。

こう考えると、大学生活というものが怖くなってきた。
演じることから脱することができるのだろうか。
いや、脱しなければならぬ。

 世間でいう五月病というものを俺はまるで信じなかった。
俺にとって人生そのものが五月病だったし、そうなると五月病なんて存在しなかった。
まさに俺の内部は複雑に成立しており、あらゆる科学でも解析できないことを信じた。

俺はというもの、四月から特に変わらず、特筆すべきことがない日々が続いた。
それは俺を焦らせた。
自分の生活と、日々更新される教科書とのかい離が大きくなっていったからだ。
教科書に載っている挿絵は魅惑の光を放っていたが、それを手にする機会はいよいよ得られなかった。
いや、実際はそれを手にしていた。
しかしそこに俺は少しも価値を見出さなかった。
光っていた何かは自分の手中に収めると単なる小石だった。
小石自体は発光体ではないため、暗がりにくると全く光らない。
俺が求めていたあれは太陽によって“光らされていた”に過ぎなかった。
そうはいえ、この小石は自分が皿からあふれ出さないようにするためには必要なものだった。
自分も教科書の中に住む人物だと、世界に証明しなくてはならなかった。
教科書のページを更新するにつれ、次第に愉快になっていった。
証明ができないものだったらそれは今までと同じく“演技”であった。
しかし、今の俺は“全力で愉快だった”。
自分もこちら側の羨望される側の人間だと確認するたびに愉快になった。

羨望する人間がいなかったらこのような感情は生まれなかったはずだ。
彼らのおかげで俺は愉快になれた。
無論彼らは存在しない。
俺の中だけの存在だ。
なぜなら、彼らがもし光を求めているならその光をつかもうとするはずだ。
しかし、彼らはその努力を怠る。
それは彼らがそこに光が見えないからだ。
そこには羨望はないのだ。
しかし、俺は自身の内部に羨望を生成することで愉快になった。

 焦りと愉快さが恋人さえ生んだ。
皆が(特に男性たちの。女性の可愛いという感覚ほど信じられないものはない)美人だという承認を得たうえで、Mと恋仲になった。
彼女は確かに美人だった。
ゆえに俺は彼女を愛した。
彼女と深い関係にならないでも、ずっと一緒にいてくれればよかった。
ずっと関係を続けてくれればよかった。
彼女は俺を愉快にしてくれた。
その美貌によって俺を愉快にした。

勿論、焦りが生んだものだ。
ところどころ欠陥がある。
彼女はどうか知らないが、俺はそれを気にしなかった。

俺も彼女も儚いものを追い求めていたことは共通する。
彼女は俺に対しより深い関係を求めた。
はたまた、俺はより長い関係を求めた。
それらは互いに無限だったかもしれない。
その無限さが俺にも彼女にも同じくらいの量の愛を与えた。

愛は尊くかけがえのないものだったかもしれない。
巷で流れる誰もが知っている歌の歌詞は理解できなくもなかった。
そのような正当な人間の感情は確かに俺の中にも存在した。
しかし、それだけが俺の感情を支配することを許さなかった。
作品名:悪魔の証明 作家名:ダストボックス