My Godness~俺の女神~Ⅳ
眼の前の女―藤堂実沙が甘えた声で悠理にしなだれかかる。
「そんなこと言わないで下さいよ。俺だって、実沙さんに逢えるまでの時間は途方もなく長くって、持て余すくらいなんですから」
もちろん口先だけの追従にすぎなかったが、実沙の頬が嬉しげに緩んだ。
「まぁ、嬉しいことを言ってくれるのね」
が、次の瞬間、さっと顔を翳らせ、すり寄ってくる。
「どうせ大勢の女に似た科白を囁いてるくせに」
悠理は吹き出したいのを堪えるのに苦労しながら、いかにも哀しげな表情を作って見せた。
「酷いことを言うんですね。俺の心が昼も夜も実沙さんだけで一杯なのは判ってるでしょう?」
「フフ、お世辞でも悪い気はしないわね」
実沙はシャネルのバッグからいつもの長財布を取り出し、一万円札を三枚差し出した。
「これで何か美味しいものでも食べなさい」
ふと思い出したように言う。
「そういえば、お母さまはお具合は、あれからどう?」
一瞬、虚を突かれ、悠理は慌てて顔を引き締めた。
そうか、そういえば、大分前に、お袋の調子が悪いんだとこの女に言ったことがあったっけ。
しかし、若い男とのアバンチュールを愉しむことしか頭にないだろうと思っていた女が半年以上も前の自分の言葉を憶えているとは思わなかった。
「お陰さまで、最近は大分調子が良いんです。感激だなぁ。実沙さんが俺のお袋のことまで気にかけてくれてたなんて」
「あらぁ、悠理クンのことなら、何でも気になるわよ」
当たり前でしょ、とでも言いたげなあからさまな秋波をよこされ、悠理は吐き気を憶えた。しかし、嫌悪感を一瞬たりとも客に見せるわけにはゆかない。
「そう。なら良かった。親は大切にしなきゃ駄目よ。うちのドラ息子なんて、この間、いきなり女の子を自宅にまで連れてきて、大騒動だったのよ」
悠理は眼をわずかに見開いた。この女が普段、どのように過ごしていようが興味などさらさらないが、同年代だという息子には幾ばくかの興味がある。
「そうなんスか。何か揉め事でも?」
実沙は憮然として言った。
「どこの馬の骨とも知れぬヤンキー女を連れてきてね。話を聞いていたら、何とキャバクラ勤めの水商売をしている女だっていうじゃない」
そのなにげない言葉には、隠しきれない侮蔑の響きが込められている。
悠理は内心、毒づいた。
手前の方こそ良い歳をして息子と同じ歳のホストに入れ込んでるのに、その言い草はねえだろう?
「もう、髪の毛なんて、あなた日本人なの? って訊きたくなるくらいの金髪で、爪なんかは真っ赤っか。見ているだけで背筋が寒くなったわよ。あんな娘をうちの嫁にだなんて、とんでもない。うちの子はきっと世間知らずで女なんてろくに知りもしないから、あの女に騙されたんだわ」
そういうあんたの方こそ、五十にもなって爪をピンクに染めてるじゃねえか。その方がよっぽど見苦しいんだよ。
悠理は心の叫びはおくびにも出さず、神妙に頷いた。
「実沙さんもご心労が絶えませんね」
「ああ、そう言って判って貰えるのは悠理クンだけね。亭主は言うのよ。好きになってしまったものは今更どうしようもないんだから、諦めろですって、冗談じゃないわ。私はあんな破廉恥な女、藤堂家の嫁にだなんて、絶対に認めませんからね」
実沙がピンクのスーツのポケットからシガレットケースを取り出す。もちろん、これもブランド物だ。煙草を一本摘んで銜えるのに、悠理はさっと脇からライターを出して火を付けてやった。
「最近ね、また煙草を始めたの。息子を生むのをきっかけに長い間、止めてたはずなんだけどね。どうもやりきれないことが多くて、煙草でも吸わないと苛々してやってられない」
あんたみたいな暇あり金ありの有閑マダムがやってられないんなら、俺はもっと、やってられないよ。何が哀しくて、休日の昼間から、こんなオバさん相手に機嫌取りしなきゃならねえんだ?
悠理はまた心で悪態をつき、さりげなく腕時計を見た。金色のロレックスは、実沙からのプレゼントである。こういう、いかにも成金めいた物は好きではないから、普段は絶対に身につけないが、流石に実沙が店に来るときには忘れずに愛用しているふりをする。
「実沙さん、そろそろ電車の時間スけど」
いかにも残念そうに言うのも忘れない。
実沙が煙草を口から放すと、悠理はまたクリスタルテーブルの上の灰皿を実沙の前に差し出した。
実沙は悠理が恭しく捧げ持った灰皿に煙草の先を押しつけ、棄てた。
「ああ、本当に名残は尽きないわ。こうしてずっと明日の朝まで悠理クンと一緒にいたい気分」
冗談じゃねえや。
悠理は肩を竦めたい衝動を抑え、また〝キラー・スマイル〟を浮かべた。氷のように冷たいのに、女心を熱く蕩けさせるといわれている伝説の微笑である。
「俺も、またひと月も実沙さんに逢えないと思うと、何か胸にこう、ぽっかり穴が空いたようですよ」
別れ際のこのひと言が実はどれだけ女の心をぐっと惹きつけるかは長年の経験から嫌になるくらい知り尽くしている。
胸に片手を添えて哀しげに言うと、実沙は悠理の顎に手をかけて仰のかせた。
彼は二人並んでソファに座っているこの場所から、一瞬、逃げ出そうかと思った。しかし、逃げ出したいのを堪え、婉然と女に微笑みかける。
実沙はそのまま悠理の顔を引き寄せ、唇を塞いだ。悠理もまた女の身体に手を回し、熱烈なキスに応える。
少しく後、悠理はさりげなく女の身体を押しやった。
「そろそろ行かないと。電車に乗り遅れてしまう」
「ねえ、今度はアフタ、行けるでしょ」
この女と関係を持ったのは、いつだったか。そう、四月の終わりだった。あの女―入倉実里をさんざん弄んでやってから数日ほど後のことだ。
あの女は良かった。こんな枯れかけたオバさんとは段違いだ。早妃と入籍するまでは、結構な数の女と関係を持ったが、玄人の風俗嬢でも、あれだけの良い身体をした女は見たことがない。胸もみずみずしく豊かで、膚には吸い付くような柔らかさと張りがある。あそこもほどよく締まっていて、俺が突いてやると、切なげな吐息を洩らした。
考えただけで、身体の芯が熱くなり硬くなる。あの魅惑的な肢体を思い出しただけで、身体が疼いて堪らない。あれから何度も、実里を待ち伏せて、どこかのホテルにでも連れていこうかと考えた。
だが、その度に、馬鹿げた自分の思惑に気づき、呆れた。あれは復讐のためにしたことで、何もあの女の身体が欲しくてやったわけではない。
あの女の豊かな乳房や淡い茂みの奥に秘められた蠱惑的な狭間を思い出す度に、何故か、あのときの女の表情まで浮かんでくる。彼の巧みな愛撫によって上り詰めるときの表情も
切なげで良かったが、何故か、初めて彼を迎え入れたときの涙を滲ませた顔や破瓜の痛みを訴えるときの縋るような瞳の方が強く印象ら残っていた。
馬鹿な。あの女は俺の早妃を轢き殺した仇だぞ?
自分に言い聞かせるが、それ自体がはや尋常ではないのだと自分でも理解はしていた。更に一日の中に何度も似たようなことを繰り返し考えている自分に思い至り、愕然とするのだ。
俺は何故、あんな女のことばかり考えている?
作品名:My Godness~俺の女神~Ⅳ 作家名:東 めぐみ