My Godness~俺の女神~ Ⅲ
「いえ、特に病気というわけではありませんが、どうも、入倉さん、妊娠されているようですね」
刹那、実里の両眼が射るように見開かれた。
「先生、今、何と?」
医師は改めて実里に向き直り、はっきりと言った。
「おめでとうございます。妊娠されていますよ」
突然、奈落の底に突き落とされたようで、眼の前が真っ白になった。無意識に立ち上がり、目眩を憶えた。ふらつく身体を駆け寄った看護士が慌てて支えてくれなければ、無様に転んでいたに相違ない。
「あ、あの。私」
身に憶えなんてありません。
実里が口を開く前に、医師は淡々と告げた。
「妊娠されたのは四月半ばでしょう。今、三ヶ月です。出産予定は来年の一月ですね」
「―」
烈しい衝撃が実里を貫いた。
妊娠したのは四月の半ば―。
医師の宣告がリフレインする。溝口悠理にレイプされたのは丁度、その時期だった。忘れもしない四月十六日の夜だ。
「大丈夫ですか?」
四十歳くらいの女性看護士が優しく顔を覗き込み、実里は辛うじて頷いた。
その後、実里は改めて婦人科の診療室で内診を受けた。そこで手のひらサイズの小さなモノクロ写真を渡された。
「これが今の赤ちゃんの様子です。もう、ちゃんと心臓も動いていますし、元気に育っています。このままいけば、来年早々には元気な赤ちゃんが生まれますよ」
手渡された写真を見ると、確かに子宮の片隅に、はっきりと小さな丸っこいものが見えた。これが赤ちゃんの入っている胎嚢という袋だと説明された。
また、身体の不調の原因はすべて妊娠によるものだろうと言われた。悪阻が少し烈しいようだが、これも入院治療が必要なほどではないから、処方された薬を服用すれば問題ないだろうとも。
「ここは婦人科なので、基本的にお産は取り扱いません。選択肢としては二つあります。一つは安定期に入る五ヶ月くらいまでは、うちで診させて貰って、それ以降はお産のできる病院に移る方法。もちろん、紹介状を書きますから、それと今までの妊娠経過を記したカルテを持っていって頂きます。二つ目は、ご自分の希望するクリニックがあれば、次回からはそちらで診て貰うという方法ですね。最初から同じ医師、病院で妊娠経過を診て貰う方が望ましいかもしれませんので、どちらを選択するかは患者さんのご希望にお任せします」
実里が何も言わないのを勘違いしたのか、看護士が側から言い添えた。
「ここも十年前まではお産を取り扱っていたんですけど、年々、赤ちゃんの数も減ってくるでしょう。設備を導入しても、肝心の妊婦さんが減る一方なので、仕方なく止めたんですよ」
しかし、実里は最後まで聞いてはいなかった。溢れてくる涙を零さないようにするのが精一杯だったのだ。
待合室に戻ると、堪えていた涙が一挙に溢れ出してきた。
何故、どうしてという想いが脳裏を駆け巡る。
これが天罰なのだろうか。
溝口早妃が亡くなったことへの天が実里に下した罰―。
「入倉さん、入倉実里さん」
さして待つこともなく呼ばれ、一週間分の薬を渡された。
「妊娠は病気ではありませんから、あまり深刻に受け止める必要はありませんよ。このお薬を飲んで、無理に食べようとはせずに、食べたいときに食べたい物を食べてね。あと一ヶ月もすればも悪阻も治まりますからね」
先刻の看護士が優しく言い、受け付けで薬を渡してくれた。その時、入り口で囁き交わす声が飛び込んできた。
「あれって、受付の入倉さんじゃない?」
「妊娠って言わなかった?」
「私、聞いたわよ、悪阻がどうとか」
実里は恐る恐る振り返った。視線の先に、見憶えのある顔が二つ、好奇心を剥き出しにしてこちらを凝視している。
二人ともに庶務課の若い女の子たちだ。確か、実里よりは四年ほど遅れての入社ではなかったか。
「こんにちはー」
「入倉先輩、どうされたんですかぁ?」
若い子の語尾を引き延ばす特有の話し方がこれほど疳に障ったことはなかった。
つい今し方、妊娠だとか悪阻だとか言っていたのに、しれっと訊ねてくるところも嫌らしい。
「ちょっとお腹の調子が悪くて。あなたたちは?」
彼女たちはささっと意味ありげな目配せを交わし、丸顔の可愛らしい子の方が言った。
「私たち、花粉症なんですぅ。もう涙とか鼻水だとか、嫌になるくらい止まらなくて」
もう一人の子の方はマスクをしていたから、それはあながち嘘ではないのかもしれない。
「それは大変ね。お大事に」
実里が先輩らしく余裕を見せて笑顔で言うと、丸顔の子がにっこりと笑った。
「先輩もお身体を大切にしてくだぁさーいね。元気な赤ちゃんが生まれると良いですね」
刹那、実里は身体中の血液が逆流するのではないかと思った。真っ青になりながらも気丈に微笑み、〝それじゃあ、お先に〟と彼女たちの前を通りガラスの引き戸を開けて外に出た。
背後で、〝いやだー〟と嬌声が上がり、クスクスと忍び笑いが聞こえた。
耳障りな声を遮断するかのようにピシャリと扉を止めると、一歩外に出た実里の眼を眩しい初夏の陽光が貫いた。
神様はあまりに残酷だと思った。
確かに自分は溝口早妃を車で撥ねた。彼女がそれによって亡くなったのも紛れもない事実である。しかし、ここまでの代償を払うくらいなら、いっそのこと死んで償えと言われた方がはるかに楽なように思えた。
誰かに逢いたかった。このまま一人でいれば、果てのない絶望と哀しみに気が狂ってしまいそうだ。
実里は夢中で携帯電話をバッグから取り出し、潤平の携帯番号を押した。
しかし、潤平は何度コールしても出なかった。まだ仕事が忙しいのかもしれない。それに、今はまだ会社にいる時刻である。彼が仕事中に電話をかけられるのを厭うのは知っている。そんなことも忘れるほど、今の自分は精神状態が不安定なのだろう。
それにしても、自分はつくづく身勝手な女だと思う。これまで潤平から熱心なプロポーズを受けながら返事を渋っていたのに、妊娠が判った途端にこの体たらくだ。
むろん、実里に何の下心もあるはずはなかった。狡猾な女ならば、まだ妊娠初期だから、すぐに潤平と関係を持てば彼の子だと上手く月数をごまかせると考えるかもしれない。
だが、実里はそういう類の女ではなかった。ただ、心が折れそうな絶望のただ中にいる時、いちばん側にいて欲しいと思ったのが潤平だったのである。
それでも、彼女にしてみれば、自分が身勝手だと思うのは実里の謙虚な人柄によるものだ。この八年間、感情を露わにしたことなどおよそなく、いつもクールさを失わなかった潤平。そんな彼が実里の本音を聞いてもなお、感情を余すところなくさらけ出し、実里にプロポーズしてきた。
彼を嫌いであれば、八年も付き合うはずもないし、ただ結婚に踏ん切るには、彼への気持ちの中にあと一つだけ足りないものがあるような気していた。
それが何なのかは実里にも判らない。ただパズルの最後のピースが見つからないような、小さいけれど大切な何かが潤平への想いには含まれておらず、実里はプロポーズに対しての明確な返答を避けていともいえる。
自分の心の奥底を覗いてみれば、けして新規プロジェクトの件だけが理由ではなかったのだと、今ならはっきりと判る。
作品名:My Godness~俺の女神~ Ⅲ 作家名:東 めぐみ