My Godness~俺の女神~
Prologue~序章~
―心が、壊れてゆく。
俺の中で、何か大切なものが音を立てて壊れてゆく。―
「この口紅、少し派手すぎない?」
「いや、そんなことは全然ないッスよ。とてもよくお似合いです」
俺は、もうこれかれこの鬱陶しい女に二時間余りもとっ捕まったままだ。俺が営業用のスマイルを顔に貼り付けたままでいるのを良いことに、女は次第にエスカレートして馴れ馴れしくなってゆく。
まあ、それも当たり前といえば当たり前だ。彼女―いや、この店を訪れる女性客たちは皆、法外な金を払って、俺たちホストとのひと刹那の偽りの恋を、幻の夢を見にきているのだから。
つい先刻から、女はついに俺の肩に両腕を回し、抱きついてきた。体勢から見れば、女は俺にしなだれかかっている―というよりは、完全に俺の膝に乗っている。他の店は知らないが、俺の勤める店はすべて完全個室制になっている。
まず店を訪れた女性客は店頭のパネルを見て、今日の指名を決める。パネルにはむろん、うちの店にいるホスト全員の顔写真と名前がズラリと並んでいる。指名を受けたヤツが空いていれば相手をするし、生憎と接客中だったら、代わりのホストが入る。
その写真は当然ながら、客に指名して貰うためには大切な手がかりになる。だから、仲間の中にはわざわざ高い撮影料を支払って有名な写真館で写真を撮って貰うヤツもいる。もちろん、町のいかにもといった古めかしい写真館ではなくて、そういう風俗営業のキャバ嬢とかホステス、ホストといった連中の宣伝広告用の顔写真を撮り慣れている専門のところだ。
俺はそういうのは好きじゃないし、そこまでする気も全然ない。だから、そのまま適当に撮ったケータイ写真を使っている。しかし、不思議なものだ。何万と使って撮った写真を載せているヤツよりも、ただの素人写真を使う俺の方が断然、指名が多い。
別に自分が店のナンバーワンだからって、それがどうしたのか? と言いたいけれど、他のヤツらにとっては重大問題らしいのだ。
まっ、俺には馬鹿馬鹿しい話だ。俺には早妃(さき)さえいれば、十分だったから。俺のパネル写真を撮ったのも実はといえば早妃だったんだ。
気障な言い方だろうが、俺は早妃にとってナンバーワンの男でありさえすれば良かった。他の女なんて全く眼中になかった。
おい、止めてくれよと言いたいのをぐっと堪えて、俺は女性客の背中に片手を回し抱き寄せる。女は完全に頭に血が上ったみたいで、俺の膝の上で無遠慮に唇を重ねてきた。ああ、ムカムカして吐きそうだ。何なんだ、このどぎつい香水の匂いは。
旦那の金が有り余ってるから、こんなところにまで来るんだろうけど、もうちったァ、マシな金の使い方はないのかよ。そう思ってしまう。可哀想なのは旦那だ。手前の嫁さんがホストクラブで昼日中から若い男とこんな風にいちゃついてるなんて知りもせずに、汗水垂らして働いているんだろう。
だが、考えてみれば、この女だって哀れなもんだ。この店に来るのは大抵、金だけは有り余ってても、心が少しも満たされてない女ばかりだからな。他のホストたちは俺がそんなことを言うと、ゲラゲラと笑う。
―悠(ゆう)理(り)はまだまだ蒼いなぁ。オバさんたちが俺らに逢いにくるのは心の渇きよりも身体の方が乾いて仕方ないからさ。
なんて、俺より年上のホストが馬鹿にしたように言う。
けど、身体の乾きなんてものは無理に馬鹿高い金払ってまで男を買わなくても、何とかなる。今は怪しげな道具が色々と出回ってるからな。しかし、どれだけ道具を駆使して欲望処理してみたところで、それは所詮、自己満足じゃないか。
ここの店に来る女たちは皆、淋しいんだろう。亭主にも子どもにも見向きもされず、空っぽになった心を持て余しかねて堪らずに来る。俺らが彼女たちに同情する必要はさらさらないが、言ってみれば、ここに来る客たちも皆、可哀想なんだろう。
おばさんの行動はますますエスカレートしてきて、今度は生温い舌が俺の口の中に入ってきそうだったので、俺は堪りかねて彼女の身体を少し押しやった。もろちん、相手にあからさまに判るようなヘマはしない。あくまでも、さりげなく、だ。
「折角、よくお似合いの口紅が落ちてしまいますよ? 実沙(みさ)さん」
このおばさんの名前は藤堂実沙。名前だけは早妃に似ているけれど、外見も中身も似ても似つかない。
「あら、口紅なんて、また塗り直せば良いだけなのに」
おばさんは満更でもないような表情で頬を染める。この女は毎回、俺を指名してくれる言わば常連さんだから、間違っても嫌な顔は見せられない。もう、ここに通い出して二年近くになるんじゃないか。
確か五十二になるとか聞いたが、まあ、年齢と見た目もどっこいどっこいってところか。特別に美人というわけでもないし、ブスというわけでもない。―どころか、こんないかにも平凡そうなおばさんがホストに狂ってるなんて誰も信じやしないだろう。
客とホストの間では携帯の番号とか個人的な情報の交換は基本的にしないことになっている。それは店の規約にもちゃんと明記されていることだ。もっとも、その規約を何人が守っているは知らないが。
たまにホストの営業用のお愛想を本気にして、のめり込んでしまう客がいる。そういう客が実はいちばん厄介。このおばさんのように、気晴らしは気晴らしと割り切ってここに来ている連中は、俺たちホストにとっては実はありがたい客なのだ。後腐れがないから。
本気になった女ほど怖いものはない。夢中になったホストの私生活にまでずかずかと入り込んでこようとするし、ホスト本人も店も大迷惑だ。まあ、十年くらい前に、まだ新婚の若妻とナンバーツーのホストが夜逃げしたって話は俺も聞いたことがあるかな。
そいつらは両方がマジになって駆け落ちしたっていう稀な例だけど、そんなことはまずあり得ない。ホストたちにもちゃんと彼女や恋人がいるし。客の相手はあくまでも金のため。それはキャバ嬢が客に振りまく愛想が見せかけだけのものだってことと同じ理屈だ。
客とだって、寝ることはある。ま、うちの店では基本、それは禁止事項に入ってるけど。守ってるヤツは少ないんじゃないかな。俺たちは、それをアフターと呼ぶ。アフターサービスの略だ。店内で客と性的関係を持つのはご法度、やりたきゃ外でやってくれってわけ。
さっきの本気になったらヤバいって話と重なるが、女って不思議な生き物だ。身体を重ねてしまえば、男が自分のものになったと錯覚してしまう。だから、店ではアフターは禁止されてるんだ。つまり禁止というよりは、そこから先はどうなっても、店は責任持たないぞ、当人同士で勝手にやってくれってことでもある。
殆どのホストに特定の彼女がいるから、じゃあ、何で客と寝るの? と訊かれたら、そりゃ、やっぱり愉しみたいとかいうのではない。大体、自分の母親のような歳の女とどうやって愉しめって?
金、金が欲しいからに決まっている。ただキスや手を握らせるだけでもかなりの金をふんだくるけど、その金はかなり店の方がピンハネするからね。その点、アフターで入ってくる金は全部俺たちの手に入る。だから、悪い顔もせず親ほども歳の違うおばさんの相手をする。
―心が、壊れてゆく。
俺の中で、何か大切なものが音を立てて壊れてゆく。―
「この口紅、少し派手すぎない?」
「いや、そんなことは全然ないッスよ。とてもよくお似合いです」
俺は、もうこれかれこの鬱陶しい女に二時間余りもとっ捕まったままだ。俺が営業用のスマイルを顔に貼り付けたままでいるのを良いことに、女は次第にエスカレートして馴れ馴れしくなってゆく。
まあ、それも当たり前といえば当たり前だ。彼女―いや、この店を訪れる女性客たちは皆、法外な金を払って、俺たちホストとのひと刹那の偽りの恋を、幻の夢を見にきているのだから。
つい先刻から、女はついに俺の肩に両腕を回し、抱きついてきた。体勢から見れば、女は俺にしなだれかかっている―というよりは、完全に俺の膝に乗っている。他の店は知らないが、俺の勤める店はすべて完全個室制になっている。
まず店を訪れた女性客は店頭のパネルを見て、今日の指名を決める。パネルにはむろん、うちの店にいるホスト全員の顔写真と名前がズラリと並んでいる。指名を受けたヤツが空いていれば相手をするし、生憎と接客中だったら、代わりのホストが入る。
その写真は当然ながら、客に指名して貰うためには大切な手がかりになる。だから、仲間の中にはわざわざ高い撮影料を支払って有名な写真館で写真を撮って貰うヤツもいる。もちろん、町のいかにもといった古めかしい写真館ではなくて、そういう風俗営業のキャバ嬢とかホステス、ホストといった連中の宣伝広告用の顔写真を撮り慣れている専門のところだ。
俺はそういうのは好きじゃないし、そこまでする気も全然ない。だから、そのまま適当に撮ったケータイ写真を使っている。しかし、不思議なものだ。何万と使って撮った写真を載せているヤツよりも、ただの素人写真を使う俺の方が断然、指名が多い。
別に自分が店のナンバーワンだからって、それがどうしたのか? と言いたいけれど、他のヤツらにとっては重大問題らしいのだ。
まっ、俺には馬鹿馬鹿しい話だ。俺には早妃(さき)さえいれば、十分だったから。俺のパネル写真を撮ったのも実はといえば早妃だったんだ。
気障な言い方だろうが、俺は早妃にとってナンバーワンの男でありさえすれば良かった。他の女なんて全く眼中になかった。
おい、止めてくれよと言いたいのをぐっと堪えて、俺は女性客の背中に片手を回し抱き寄せる。女は完全に頭に血が上ったみたいで、俺の膝の上で無遠慮に唇を重ねてきた。ああ、ムカムカして吐きそうだ。何なんだ、このどぎつい香水の匂いは。
旦那の金が有り余ってるから、こんなところにまで来るんだろうけど、もうちったァ、マシな金の使い方はないのかよ。そう思ってしまう。可哀想なのは旦那だ。手前の嫁さんがホストクラブで昼日中から若い男とこんな風にいちゃついてるなんて知りもせずに、汗水垂らして働いているんだろう。
だが、考えてみれば、この女だって哀れなもんだ。この店に来るのは大抵、金だけは有り余ってても、心が少しも満たされてない女ばかりだからな。他のホストたちは俺がそんなことを言うと、ゲラゲラと笑う。
―悠(ゆう)理(り)はまだまだ蒼いなぁ。オバさんたちが俺らに逢いにくるのは心の渇きよりも身体の方が乾いて仕方ないからさ。
なんて、俺より年上のホストが馬鹿にしたように言う。
けど、身体の乾きなんてものは無理に馬鹿高い金払ってまで男を買わなくても、何とかなる。今は怪しげな道具が色々と出回ってるからな。しかし、どれだけ道具を駆使して欲望処理してみたところで、それは所詮、自己満足じゃないか。
ここの店に来る女たちは皆、淋しいんだろう。亭主にも子どもにも見向きもされず、空っぽになった心を持て余しかねて堪らずに来る。俺らが彼女たちに同情する必要はさらさらないが、言ってみれば、ここに来る客たちも皆、可哀想なんだろう。
おばさんの行動はますますエスカレートしてきて、今度は生温い舌が俺の口の中に入ってきそうだったので、俺は堪りかねて彼女の身体を少し押しやった。もろちん、相手にあからさまに判るようなヘマはしない。あくまでも、さりげなく、だ。
「折角、よくお似合いの口紅が落ちてしまいますよ? 実沙(みさ)さん」
このおばさんの名前は藤堂実沙。名前だけは早妃に似ているけれど、外見も中身も似ても似つかない。
「あら、口紅なんて、また塗り直せば良いだけなのに」
おばさんは満更でもないような表情で頬を染める。この女は毎回、俺を指名してくれる言わば常連さんだから、間違っても嫌な顔は見せられない。もう、ここに通い出して二年近くになるんじゃないか。
確か五十二になるとか聞いたが、まあ、年齢と見た目もどっこいどっこいってところか。特別に美人というわけでもないし、ブスというわけでもない。―どころか、こんないかにも平凡そうなおばさんがホストに狂ってるなんて誰も信じやしないだろう。
客とホストの間では携帯の番号とか個人的な情報の交換は基本的にしないことになっている。それは店の規約にもちゃんと明記されていることだ。もっとも、その規約を何人が守っているは知らないが。
たまにホストの営業用のお愛想を本気にして、のめり込んでしまう客がいる。そういう客が実はいちばん厄介。このおばさんのように、気晴らしは気晴らしと割り切ってここに来ている連中は、俺たちホストにとっては実はありがたい客なのだ。後腐れがないから。
本気になった女ほど怖いものはない。夢中になったホストの私生活にまでずかずかと入り込んでこようとするし、ホスト本人も店も大迷惑だ。まあ、十年くらい前に、まだ新婚の若妻とナンバーツーのホストが夜逃げしたって話は俺も聞いたことがあるかな。
そいつらは両方がマジになって駆け落ちしたっていう稀な例だけど、そんなことはまずあり得ない。ホストたちにもちゃんと彼女や恋人がいるし。客の相手はあくまでも金のため。それはキャバ嬢が客に振りまく愛想が見せかけだけのものだってことと同じ理屈だ。
客とだって、寝ることはある。ま、うちの店では基本、それは禁止事項に入ってるけど。守ってるヤツは少ないんじゃないかな。俺たちは、それをアフターと呼ぶ。アフターサービスの略だ。店内で客と性的関係を持つのはご法度、やりたきゃ外でやってくれってわけ。
さっきの本気になったらヤバいって話と重なるが、女って不思議な生き物だ。身体を重ねてしまえば、男が自分のものになったと錯覚してしまう。だから、店ではアフターは禁止されてるんだ。つまり禁止というよりは、そこから先はどうなっても、店は責任持たないぞ、当人同士で勝手にやってくれってことでもある。
殆どのホストに特定の彼女がいるから、じゃあ、何で客と寝るの? と訊かれたら、そりゃ、やっぱり愉しみたいとかいうのではない。大体、自分の母親のような歳の女とどうやって愉しめって?
金、金が欲しいからに決まっている。ただキスや手を握らせるだけでもかなりの金をふんだくるけど、その金はかなり店の方がピンハネするからね。その点、アフターで入ってくる金は全部俺たちの手に入る。だから、悪い顔もせず親ほども歳の違うおばさんの相手をする。
作品名:My Godness~俺の女神~ 作家名:東 めぐみ