我的愛人 ~我的愛人~
第三章
璧輝は震える右手で婉容から優しく煙管を取り上げると、そっとサイドテーブルに置いた。微かな身動きすらしないその肉体はあたかも抜け殻の如く、そこにあるべき魂は偽りの恍惚に永遠に酔いしれているかのようであった。
顕㺭は衝撃のあまり続く言葉を失い、跪いたままおずおずと両手を差し伸べ、そっと婉容を抱き締める。陶器で作られた冷たい人型の置物のようなその姿。不安に駆られて胸の鼓動を確認し、抱き締めた両腕に次第に力をこめてゆく。強く激しくその身体が砕けんばかりに。そのはずみに軍帽がはらりと豪奢な絨毯の上に落ちた。
「……嘘だ……」
昨日今日の吸飲ではない。この症状はかなり以前からのものに違いない。数多いる璧輝の兄の一人も阿片中毒で亡くなっている。婉容はその症状に酷似していた。
一年前天津で初めて出逢った時はそんな翳りは微塵も感じられなかった。輝くばかりの美しさ、自分を見つめてくれた滑らかな黒い瞳。ところが今はどうだ? 一回りも細くなってやつれた身体、艶のない肌、色褪せた唇、死人のように生気の無い眼差し……。
この満洲での生活が婉容の精神を極限まで追い込み、そして確実に急激に肉体をも蝕んでいることが一目瞭然であった。
「婉容! 僕を見ろ! お願いだ、僕を見てくれ!」
両の掌で婉容のげっそりと肉のそげ落ちた頬を挟んで視線を自分に固定させる。璧輝の祈りにも似た叫びが漸く耳に心に届いたのか、婉容の二つの瞳はまるで機械仕掛けの人形のようにぎこちなく動き璧輝の眸を捕らえ、そして小さな唇が微かに開いた。
「だ……れ……?」
「僕だよ、愛新覚羅顕㺭……婉容、君に逢いに来たんだよ!」
その小さな頭を思い切り自分の胸に押し当てた。
「顕㺭……」
婉容は呪文を唱えるように何度も何度も呟いた。すると、だらりと下がっていた彼女の両腕が、静かにゆっくりと顕㺭の軍服の背中に回ったかと思うと……力を込めてしっかりと抱き締めた。
「顕㺭なのね……ほんとうに顕㺭なのね?」
「そうだよ。もう忘れてしまった?」
寂しく微笑む顕㺭は、白い皮手袋をはめた手で婉容の髪を、頬を、唇を愛おしそうに優しく撫でる。その柔らかく暖かな感触で萎れていた花が再び咲くが如く、婉容のぼやけた瞳に光が宿り表情に生気が甦る。
「忘れるなんて、何故そんなこと……! 忘れてないわ……忘れられるはずがないの! 本当に逢いに来てくださったのね? 私、待って待って待ち続けて……貴方の方こそ私をお忘れになったのかと思って諦めていたのよ」
「馬鹿だな、僕が君のことを忘れるわけがないじゃないか。逢いたくて堪らなくて……今夜は閣下に嘘までついてここに来た。バレたらきっとこの首がすっ飛ぶさ」
忠実な従僕のように跪いたまま婉容の両手を握り締め、顕㺭はクスクス笑った。
「婉容……」
「なあに?」
「どうしてこんな……」
表情が瞬時にして厳しいものへと変わる。
「煙管を取って頂戴」
「駄目だ」
握りしめる手にさらに力を込めた。
「お願いよ……」
「こんなもの……一体いつから……」
「だって……これは貴方がいない寂しさを紛らわす為のものだもの」
「……!」
「貴方はお元気だった? 幸せにしていらっしゃるの?」
「……こんな君を目の前にして幸せなはずがないじゃないか! 君の幸せが僕の幸せだったはずなのに……なのに……こんなことなら天津から連れ出すんじゃなかった……君に執政夫人になれなんてけしかけるんじゃなかった……あんな軟禁生活よりもここに来た方が自由になれると、幸せになれると信じていたのに……奴等の言いなりになってこんな……こんな……今頃気付くなんて!」
顕㺭は激しく頭を振り、握りしめた婉容の白い両手を自分の頬に強く押し当てた。後から後から自らを呪う呪詛の言葉が唇から迸る。婉容は幼子をあやす様に優しく微笑むと、両手を離してふわりと顕㺭の頬を挟んだ。
「そんなにご自分を責めるものではないわ。あの時顕㺭でなくともきっと別の誰かが私を迎えにきたはずよ。知っていたわ、私は定められた運命からはどうにも逃れられないと」
「婉容、そんな哀しい事言うな……」
「顕㺭……聞いて……私はね……今とても幸せなのよ」
「え……?」
「だって今ここに貴方が居て下さるのだもの……毎晩毎晩夢にまで見た貴方が」
差し向けられる笑顔は一年前とそっくり同じ。
「だから……顕㺭も幸せでしょう?」
顕㺭は邪魔な軍刀を床に投げ捨て、堪らなくなってその華奢な身体を再度抱き締めた。
「……君は本当に馬鹿だよ……何故僕を責めない? いい気になって清朝復辟なんてまやかしを追いかけた挙句、日本人の手先になって君をこんな所に送り届けてしまった、救いようのない大馬鹿な僕のことを!」
「どうして貴方を責めることが出来るでしょう……私が幸せになるために奔走してくれた貴方を、良かれと思って日本人に協力している貴方を、私がどうして……?」
白く細い指が顕㺭の髪を撫で、するりと頬を滑る。
「婉容……今宵一晩君と一緒に……」
甘く香る黒髪。耳朶に光る紅玉が血の色を思わせる。
「意味……分かる?」
耳元で掠れた声で囁くと、小さく頷いた。
「嫌じゃない……? 女同士でも」
「私を迎えに来てくれたあの時もこの軍服だったわ……私ね、あの時あなたを一目見て心奪われたの……溥儀がいるにもかかわらず、その気持ちは今でも変わらない……私こそ執政閣下に対する反逆罪で首が飛ぶわ」
「僕だって同じだ。君の美しさに一発で参った。手の届かない御方だと、同性だと、人のものだと分かっていても、この想いはずっと抑えられなかった……だから今夜こうして……」
──禁忌を犯しに来たんだよ。
じっと見つめ合い、そしてどちらからともなく目を閉じると、唇が自然と吸い寄せられていった。
「顕㺭と一緒にいたい……ずっと……私は貴方だけのものよ」
作品名:我的愛人 ~我的愛人~ 作家名:凛.