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闇に咲く花~王を愛した少年~Ⅴ(完結編)

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 当てがあるわけではなく、あまりにも行き当たりばったりな気がしないでもなかったが、太陽が昇る方に向いて進めば、何か良いことがありそうな気がしたのである。
 まずは都を一刻も早く出る。都を出さえすれば、無事逃げ切れる可能性は大きくなる。逃げ先として真っ先に眼を付けられるのが故郷だとも考えたが、実のところ、領議政ほどの大物が自分のような小物をわざわざ都から遠く離れた場所まで追ってくる意味はない。
 幾ら〝任務〟に失敗すれば殺すと脅していたからとて、都の外に一旦出てしまえば、大がかりな捜索網を張ってまで捕らえるほどの価値は誠恵にはない。口封じのためなら、誠恵が都を出れば、領議政にとっては十分のはずだ。
 誠恵がハッと顔を上げた。
 東の空の端が燃えている。
 夜の色をいまだわずかに残した黎明の空が完全に朝の色に染め上げられようとしている。
 黎明の色は、希望を抱かせる。
 たとえ、それが儚い一縷のものであったとしても。
 誠恵が輝く朝陽に眼を奪われ、見惚れていたその時、彼は背後でビュウともヒュウともつかぬ音を聞いた。まるで風の唸りような音が一瞬耳の傍を掠めたかと思ったのと、誠恵の細い身体が大きくつんのめったのは、ほぼ同時のことだった。
「国王殿下、万歳。国王殿下、万―歳」
 呟く誠恵の口からコポリと音を立てて鮮血が溢れ、飛沫(しぶき)のように周囲の地面を濡らす。
 彼の背中を一本の矢が深々と刺し貫いていた。丁度心臓のある位置を毒矢で射貫かれたのだ。
 しかも、早朝の人気が途絶えた道で、後ろから付けてくる気配は全く感じられなかった。大方、気配を消していたのだろう。よく訓練された刺客であれば、それくらいのことは朝飯前だ。よほどの手練れの者の仕業としか思えない。
 誠恵は口から大量の血を吐きながら、地面に音を立てて倒れた。
 誠恵は薄れゆく意識を懸命に保とうと己を叱咤する。
 ありったけの力を振り絞り、うつ伏せて倒れていた状態で顔だけを起こした。
―嗚呼、何と美しい。
 昇りかけた朝陽が正面―はるか東の地平を淡い藤色に染めている。
 誠恵は震える手で懐から玉牌を取り出した。薔薇の花を翠玉石で象った玉牌は、簪とお揃いで光宗から贈られたものだ。
 早々と毒が回ったのか、手脚は痺れて上手く動かないし、眼も時々霞んで視界が覚束なくなり始めている。
 流石は抜かりのない領議政孫尚善だ、こうも易々と宮殿を出てからすぐに殺られるとは考えてもみなかった。
 玉牌と簪に付いている薔薇は、新緑の若葉を思わせる色の花だ。誠恵は小さな緑の薔薇をそっと撫でた。〝緑花〟の名を持つ翠色の石をあの男は誠恵のために選んでくれた。
 これで良いのだと、思った。
 これで、良かったのだ。自分は死んで、あの方は生き残った。
 残してゆく村の家族のことだけが心残りだ。
 ここまでやるからには、あの冷酷な男は誠恵を殺してもなお飽きたらず、両親や幼い弟妹を殺すかもしれない。
 都から離れた村に住む家族を殺しても、領議政には何の特もない。何の力も持たない無力で貧しい農民だ。後はもうあの男が報復として誠恵を殺したことで満足して、彼らにまで魔手を伸ばさないのを祈るだけだった。
 このような生き方を選んでしまったことを家族には幾ら詫びても詫びようがない。
 殿下、どうか、万世を遍く照らす光のような聖君におなり下さい。
 最愛の男に囁きかける。
 自分の何がいけなかったのだろう。
 王室でも両班でもなく貧しい民の家に生まれたことか、さもなければ、愛しい男の愛を堂々と受け容れられる女としてではなく、男としてこの世に生を受けたことか?
 いいや、そうではないことを彼は既に知っていた。
 自分のどこが悪いわけでも前世で何の罪を犯したわけでもなく、だた宿命という残酷な予め定められた二人のそれぞれの道がけして永遠(とわ)に交わることのないものだった。
 ただ、それだけのことなのだ。
 私の心からお慕いしたお方は、万世をその光で遍く照らす聖君であられた。私はあの方を愛したことをけして後悔はしない、むしろ誇りに思うだろう。
 どこからか、かすかに花の香りが早朝の風に乗って流れてくる。
 暗闇の中で大輪の黄薔薇が妖艶に花開いてゆく。少年の瞼には、その時、確かに漆黒の闇に開く花が映じていた。
「チョ、ナ―」
 愛する男の幸せを祈りながら、誠恵は静かに眼を閉じた。
 


 
 愛しい男(ひと)。
 どれだけの言葉を尽くしたとしても言い表せないほど恋しいあなた。
 もし、私が男ではなく女だったら。
 もし、私が貧しい農家の娘ではなく、両班の令嬢だったとしたら。
 そして、あなたが国王殿下などではなく、ただ人であったなら。
 私は、あなたのお側にずっといることができたでしょうか?
 私には判りません。
 あなたほどのお方が朝鮮の王としてこの世に生を受けられたのは、きっと天のご意思が働いているからでしょう。
 あなたにお逢いして、王は天が決めるものだという賢人の諺が真実であることを、私は初めて知りました。
 きっと何度生まれ変わっても、あなたは必ず聖君として民から慕われる王となられるでしょう。
 だから、せめて私は次の世では女として生まれ変わりたいと思います。
 どれほど貧しくとも、両班の娘でなくとも、少なくとも正真正銘の女人として生まれれば、今度こそ、あなたのお側にいられるでしょうから。
 さようなら、愛しい男。
 どれほどの言葉を尽くしたとしても、あなたへの私のこの想いを語り尽くせるすべはありません。
 
 
 朝鮮王朝時代中期、都に一時期流行った歌である。作者不詳であるが、当時、この詩を基に仮面劇の芝居が作られ、都のあちこちで上演され大いに民衆の歓声を受けたという。
 多くの人々の心を揺さぶり、涙を誘った切ない恋心を歌ったこの詩を作ったのは後宮女官であり、当時の国王光宗をモデルにしていると囁かれたが、その真偽の程は定かではなく、今となっては光宗の時代の後宮に張緑花という女官が存在したかどうかも不明である―。
 ちなみに、光宗は生涯、ただ一人を除いては女人を傍に近づけることのなかった王であり、唯一の例外が十五歳のまだ幼い女官見習いの少女であったとか。しかし、その少女が緑花だという確証はどこにもないし、ましてや、その名前もどのような生涯を辿ったのかすらも判っていない。
 光宗は独身を貫いた国王として知られており、実子のないまま六十四歳で崩御した。民衆は世に比類なき聖君として讃えられた偉大な王の徳に思いを馳せ、国中の民の哀しみの涙が海のように溢れたという。
 光宗の死後は、長らく世子の座にあった光宗の兄永宗の王子誠徳君がが即位。既に五十二歳の新王は光宗に倣い、よく民を労り、仁政をしき光宗に続き、聖君と呼ばれ慕われた。
 この後、朝鮮王朝の王統は誠徳君の子孫が代々継承してゆくことになる。
                 (了)

 
 
 





薔薇(黄色)
 花言葉―君のすべてが可憐、嫉妬、薄れゆく愛、美、私のことを忘れて。
六月七日の誕生花
 
    
  エメラルド