闇に咲く花~王を愛した少年~Ⅴ(完結編)
ゆっくりと眼を見開いたその時、誠恵は愕然とした。
光宗その人が褥に身を起こしていたのである。
「―殿下」
声が、戦慄く。
このひとは、すべてを見ていたのだろうか。
私が、このひとを殺そうとしていたところを。
光宗が淡々と言った。
「殺すなら、殺せば良い」
「殿下、何故、そのようなことを―」
誠恵が堪りかねて言うと、彼は、ふわりと笑った。その花が綻ぶような笑顔は、誰かを彷彿とさせる。
―世子邸下。
誠恵の瞼に世子誠徳君の笑顔が甦る。
そうだ、この二人の叔父と甥はとてもよく似ている。顔かたちだけではなく、もっと深いところで似ているのだ。
他人を疑わない光宗と、他人を信じ、どこまでも庇おうとする誠徳君。
その時、誠恵は大切なことに気付いたのである。人を愛するのは、信じることだということを。
―人を愛するのは信じること。
それは、生まれたばかりの赤児にすり込まれるこの世の初めての記憶のように、誠恵の心の中に入り込んできた。
「予を殺して、そなたが楽になるというのなら、予はそれで構わない。元々、予は王となるはずの人間ではなかった。最初から自分のものではない玉座になぞ未練はない。もし、未練があるとしたら、それは、そなたに対してだけだ」
「―!」
誠恵の受けた衝撃はあまりにも大きかった。王を殺そうとした自分に、どうして光宗はそこまで言えるのだろうか。
「たとえ、そなたが何者であろうとも、予はそなたに逢えて良かったと心から思うている。むろん、予とて聖人君子ではない。最初は予を騙したそなたを許せぬと思ったが、どうやら、予はとことん、そなたには弱いらしい」
と、しまいは、いつものように冗談めかして言うのも変わらない。
誠恵はたまらず叫んでいた。
「殿下、お聞き下さい。私は、私は―」
流石に、そのひと言を告白するのは勇気が要った。しかし、誠恵が刺客であると知りながら、なお許そうとする光宗にはすべてを話さなければならない、いや、話すべきだと思った。
小さく息を吸い込み、ひと息に言う。
「私は女ではございませぬ、張緑花というのは仮の名で、実は男なのです」
顔が上げられなかった。恥ずかしさと罪の意識が渦巻く。自分は何と恥知らずな人間だろう。男の身で女を装い、こんな優しい男を騙し、油断させて殺そうとしていたのだ。
自分のさもしさが許せず、誠恵は涙が溢れそうだった。
「もう良い、何も言うな」
光宗の静かな声音が返った。
「でも」
誠恵が言いかけるのを、光宗がやんわりと遮る。
「予はすべてを知っている」
「私は殿下を殺そうとした大罪人なのですよ?」
「もう本当に良いのだ」
抱き寄せられ、髪に顔を埋められる。
向かい合った二人の間に置かれた蝶型の燭台の上で、蝋燭の焔が手招きするように揺らめいた。
「真の名は?」
「え―」
誠恵は光宗から身を離し、戸惑ったような表情で見つめる。
「親が付けてくれた名があるだろう」
「誠(ソン)恵(ヘ)」
漸く質問の意味を解した誠恵が応えると、光宗が頷いた。
「そうか、誠恵か。良き名だ。緑花よりもそなたには、そちらの方がふさわしい。そなたの両親はその名のように生きて欲しいと願ったのであろうな」
自分が産声を上げたときの両親の気持ちは判らないが、今の我が身はその名からはあまりに縁遠い生き方をしている。大好きな男を騙して、殺そうとして。
光宗が袖から小さな布包みを取り出して誠恵におもむろに差し出した。
小首を傾げて見返す誠恵を眩しげに見つめ、光宗は笑った。
「開けてみると良い」
「よろしいのでございますか?」
「ああ」
誠恵は言われるままに布を解いた。中から現れたのは、エメラルド(翠玉)の玉(オク)牌(ペ)と簪だった。
薔薇の花の形をした石のついた簪と玉牌を誠恵はしばらく無言で眺めた。
「このような高価なものを―、よろしいのですか?」
光宗は微笑む。
「ずっと前から、そなたに贈ろうと作らせていたのだ。あれこれとあったから、今まで渡せずにいた。気に入ってくれたか?」
照れ臭そうに言う顔もまた世子誠徳君のはにかんだときの顔とよく似ている。
「ありがとうございます。大切に致します」
玉牌と簪を胸に抱きしめると、光宗は笑う。以前と変わらない優しい笑顔に涙が出そうになった。
「そのようなもので良ければ、幾らでも作らせる。そなたは欲がなさすぎる。もっとねだり事をすれば良いのだ」
「いいえ、殿下の恩寵を頂く者がねだり事などしては、国の乱れの因となります。民の生活が困窮しているときに、殿下や王室の方々が民が納めた金を女のために使えば、民は殿下に失望することでしょう」
誠恵が本心から言うと、光宗は笑いながら言った。
「そなたは口煩い妻になりそうだな」
〝妻〟、自分には一生縁のない言葉だと思うと、泣けそうになる。
誠恵の背中に回された光宗の手に力がこもり、強く抱きしめられた。
誠恵は、ありったけの想いを込めて光宗を見上げた。
「殿下、私を一度だけ抱いて下さいますか?」
かすかに愕きの表情が端整な面にひろがる。
「―良いのか」
「はい」
逡巡せず頷いた誠恵を光宗がいっそう強く抱きしめ、誠恵はあまりにきつく抱きしめられ、息苦しさに小さな胸を喘がせた。
そっと褥に押し倒され、夜着の前結びになった合わせ紐を解かれ、前をくつろげられる。
ひんやりとした夜気が膚を刺し、思わずかすかに身を震わせると、〝寒いのか?〟と優しく顔を覗き込んで問われた。
誠恵は微笑み、首を振る。
―ああ、これでやっと夢が叶う。
誠恵はそっと眼を閉じる。
狂おしく求められることも、身体をおしひろげられることも、愛する男にされるならば、これほどまでに悦びと快さを感じるものなのだとその時、誠恵は初めて知り得た。苦痛と嫌悪だけを与えられた領議政との初夜とはまるで違う。
王は誠恵を壊れ物のように大切に扱い、優しく何度も抱いた。
この至福の瞬間さえあれば、自分はどんな試練だって乗り越えられる。
誠恵は恋しい男の腕の中であえかな声を上げながら、涙を流す。
すべらかな頬をつたう涙の雫を目ざとく見つめて、王が唇で吸い取る。
「―愛している、誠恵」
「この言葉をお聞きしただけで、たとえこの場で息絶えても構いません」
誠恵は光宗の腕に包み込まれ、泣いた。
「愚かなことを申すな、予とそなたはこれから始めるのだ。誠恵、改めて言う。張緑花として私の傍で生きてくれ。そなたにとっては偽りの生やもしれぬが、たとえ女と偽って生きていても、それは見せかけだけで人眼をごまかす手段にすぎぬ。予は誠恵という一人の人間を常に見て、求めているのだ。張緑花として私の妃となり、私の伴侶として生きてくれ」
光宗の真心が伝わってくる求愛の言葉だ。誠恵が男であると承知しながら、生涯、妃として傍にいて欲しいとは、よほどの決意と覚悟がなければ口にはできないだろう。
誠恵は最も気がかりなことを訊ねた。
「領相大監とのことは、お訊きにならないのですか?」
光宗は真っすぐに誠恵を見つめて淀みなく言う。
光宗その人が褥に身を起こしていたのである。
「―殿下」
声が、戦慄く。
このひとは、すべてを見ていたのだろうか。
私が、このひとを殺そうとしていたところを。
光宗が淡々と言った。
「殺すなら、殺せば良い」
「殿下、何故、そのようなことを―」
誠恵が堪りかねて言うと、彼は、ふわりと笑った。その花が綻ぶような笑顔は、誰かを彷彿とさせる。
―世子邸下。
誠恵の瞼に世子誠徳君の笑顔が甦る。
そうだ、この二人の叔父と甥はとてもよく似ている。顔かたちだけではなく、もっと深いところで似ているのだ。
他人を疑わない光宗と、他人を信じ、どこまでも庇おうとする誠徳君。
その時、誠恵は大切なことに気付いたのである。人を愛するのは、信じることだということを。
―人を愛するのは信じること。
それは、生まれたばかりの赤児にすり込まれるこの世の初めての記憶のように、誠恵の心の中に入り込んできた。
「予を殺して、そなたが楽になるというのなら、予はそれで構わない。元々、予は王となるはずの人間ではなかった。最初から自分のものではない玉座になぞ未練はない。もし、未練があるとしたら、それは、そなたに対してだけだ」
「―!」
誠恵の受けた衝撃はあまりにも大きかった。王を殺そうとした自分に、どうして光宗はそこまで言えるのだろうか。
「たとえ、そなたが何者であろうとも、予はそなたに逢えて良かったと心から思うている。むろん、予とて聖人君子ではない。最初は予を騙したそなたを許せぬと思ったが、どうやら、予はとことん、そなたには弱いらしい」
と、しまいは、いつものように冗談めかして言うのも変わらない。
誠恵はたまらず叫んでいた。
「殿下、お聞き下さい。私は、私は―」
流石に、そのひと言を告白するのは勇気が要った。しかし、誠恵が刺客であると知りながら、なお許そうとする光宗にはすべてを話さなければならない、いや、話すべきだと思った。
小さく息を吸い込み、ひと息に言う。
「私は女ではございませぬ、張緑花というのは仮の名で、実は男なのです」
顔が上げられなかった。恥ずかしさと罪の意識が渦巻く。自分は何と恥知らずな人間だろう。男の身で女を装い、こんな優しい男を騙し、油断させて殺そうとしていたのだ。
自分のさもしさが許せず、誠恵は涙が溢れそうだった。
「もう良い、何も言うな」
光宗の静かな声音が返った。
「でも」
誠恵が言いかけるのを、光宗がやんわりと遮る。
「予はすべてを知っている」
「私は殿下を殺そうとした大罪人なのですよ?」
「もう本当に良いのだ」
抱き寄せられ、髪に顔を埋められる。
向かい合った二人の間に置かれた蝶型の燭台の上で、蝋燭の焔が手招きするように揺らめいた。
「真の名は?」
「え―」
誠恵は光宗から身を離し、戸惑ったような表情で見つめる。
「親が付けてくれた名があるだろう」
「誠(ソン)恵(ヘ)」
漸く質問の意味を解した誠恵が応えると、光宗が頷いた。
「そうか、誠恵か。良き名だ。緑花よりもそなたには、そちらの方がふさわしい。そなたの両親はその名のように生きて欲しいと願ったのであろうな」
自分が産声を上げたときの両親の気持ちは判らないが、今の我が身はその名からはあまりに縁遠い生き方をしている。大好きな男を騙して、殺そうとして。
光宗が袖から小さな布包みを取り出して誠恵におもむろに差し出した。
小首を傾げて見返す誠恵を眩しげに見つめ、光宗は笑った。
「開けてみると良い」
「よろしいのでございますか?」
「ああ」
誠恵は言われるままに布を解いた。中から現れたのは、エメラルド(翠玉)の玉(オク)牌(ペ)と簪だった。
薔薇の花の形をした石のついた簪と玉牌を誠恵はしばらく無言で眺めた。
「このような高価なものを―、よろしいのですか?」
光宗は微笑む。
「ずっと前から、そなたに贈ろうと作らせていたのだ。あれこれとあったから、今まで渡せずにいた。気に入ってくれたか?」
照れ臭そうに言う顔もまた世子誠徳君のはにかんだときの顔とよく似ている。
「ありがとうございます。大切に致します」
玉牌と簪を胸に抱きしめると、光宗は笑う。以前と変わらない優しい笑顔に涙が出そうになった。
「そのようなもので良ければ、幾らでも作らせる。そなたは欲がなさすぎる。もっとねだり事をすれば良いのだ」
「いいえ、殿下の恩寵を頂く者がねだり事などしては、国の乱れの因となります。民の生活が困窮しているときに、殿下や王室の方々が民が納めた金を女のために使えば、民は殿下に失望することでしょう」
誠恵が本心から言うと、光宗は笑いながら言った。
「そなたは口煩い妻になりそうだな」
〝妻〟、自分には一生縁のない言葉だと思うと、泣けそうになる。
誠恵の背中に回された光宗の手に力がこもり、強く抱きしめられた。
誠恵は、ありったけの想いを込めて光宗を見上げた。
「殿下、私を一度だけ抱いて下さいますか?」
かすかに愕きの表情が端整な面にひろがる。
「―良いのか」
「はい」
逡巡せず頷いた誠恵を光宗がいっそう強く抱きしめ、誠恵はあまりにきつく抱きしめられ、息苦しさに小さな胸を喘がせた。
そっと褥に押し倒され、夜着の前結びになった合わせ紐を解かれ、前をくつろげられる。
ひんやりとした夜気が膚を刺し、思わずかすかに身を震わせると、〝寒いのか?〟と優しく顔を覗き込んで問われた。
誠恵は微笑み、首を振る。
―ああ、これでやっと夢が叶う。
誠恵はそっと眼を閉じる。
狂おしく求められることも、身体をおしひろげられることも、愛する男にされるならば、これほどまでに悦びと快さを感じるものなのだとその時、誠恵は初めて知り得た。苦痛と嫌悪だけを与えられた領議政との初夜とはまるで違う。
王は誠恵を壊れ物のように大切に扱い、優しく何度も抱いた。
この至福の瞬間さえあれば、自分はどんな試練だって乗り越えられる。
誠恵は恋しい男の腕の中であえかな声を上げながら、涙を流す。
すべらかな頬をつたう涙の雫を目ざとく見つめて、王が唇で吸い取る。
「―愛している、誠恵」
「この言葉をお聞きしただけで、たとえこの場で息絶えても構いません」
誠恵は光宗の腕に包み込まれ、泣いた。
「愚かなことを申すな、予とそなたはこれから始めるのだ。誠恵、改めて言う。張緑花として私の傍で生きてくれ。そなたにとっては偽りの生やもしれぬが、たとえ女と偽って生きていても、それは見せかけだけで人眼をごまかす手段にすぎぬ。予は誠恵という一人の人間を常に見て、求めているのだ。張緑花として私の妃となり、私の伴侶として生きてくれ」
光宗の真心が伝わってくる求愛の言葉だ。誠恵が男であると承知しながら、生涯、妃として傍にいて欲しいとは、よほどの決意と覚悟がなければ口にはできないだろう。
誠恵は最も気がかりなことを訊ねた。
「領相大監とのことは、お訊きにならないのですか?」
光宗は真っすぐに誠恵を見つめて淀みなく言う。
作品名:闇に咲く花~王を愛した少年~Ⅴ(完結編) 作家名:東 めぐみ