クラインガルテンに陽は落ちて
第１０章 それぞれのスタート
宮森由樹は、キャリーバッグを引っ張りながら成田空港のコンコースを歩いていた。その足取りは軽やかで颯爽としていた。１１時ちょうどのフライトまであと１時間半だ。搭乗手続きを済ませ、待合スペースに腰を掛けると携帯電話で長いメールを打ち始めた。
柚木大輔は、Ｈ工業のデスクで会議資料に目を通していた。目は数字を追っていたものの、頭では違うことを考えていた。今日、１１時の便で由樹が日本を発つことを知っていたからだ。時計が１０時を廻ったころ、携帯にメールが着信した。由樹からだった。柚木はデスクの陰でそっとメールを開けた。
『こんにちは、宮森です。今成田にいます。１１時の便でサンフランシスコに向かいます。先日のぎこちないダンス、楽しかったです。でも私にはやっぱりダンスは向いていないみたい。もともとセンスがないと思うの。
『マディソン郡の橋』観ましたよ。もしもあの時、映画みたいにダンス以上のことになってしまったら、私は今ここにいなかったかもしれません。素敵な思い出をありがとう。お仕事頑張ってください。そして農園も続けてください。
そうそう、ポトフのレシピでしたよね。まずお鍋にオリーブオイルを敷いて、野菜を炒めて……』
由樹を乗せた飛行機は、無事離陸しグングンと高度を上げた。由樹は、さっき送ったばかりの長いメールを削除すると、あの日柚木と一緒に見た夕日に染まるクラインガルテンを思い出していた。そして携帯音楽プレイヤーにダウンロードしたジャニス・イアンを聞きながら目を閉じた。”Will you dance?” が始まると、胸が少し熱くなった。
柚木は、その日早く仕事を切り上げ、スーパーに立ち寄った。ポトフの材料を買うためだ。由樹が日本を離れたことで、自分の生活もリセットされたよう気がしていた。帰宅するとバイトで忙しい娘が珍しく家にいた。
「ねえ、お母さん、今日はお父さんが夕飯作ってくれるって。ポトフだって」
柚木はすっかり夫の、そして父親の顔に戻っていた。トマトを切り始めると妻と娘は驚いた。
「ポトフにトマトを入れるの？」
「それがな、なかなかいけるんだよ」
柚木は得意になってそう言うと、レシピを確認するためにそっと携帯を開いた。
（終わり）
作品名：クラインガルテンに陽は落ちて 作家名：タマ与太郎