学生とオルゴール
「こんなおばさんでいいのかしら?」
「へ? ……あ、えっと」
僕は面食らった。
けれどもすぐにこう頭を切り換える。
よく考えろ、これはまたとないチャンスだ。「女遊びしすぎちゃってさー」という台詞を現実のものとすることができるんだから。そうだ、実際に事を起こしてしまった方が退寮になる確率はぐんと跳ね上がるじゃないか。
「ええ、もちろんですよ。先生が僕の誘いに乗ってくれるなんて、夢みたいだ」
僕は持ち直して爽やかな笑顔でそう言った。
すると、突如、先生の表情ががらりと変わった。
それは僕がこれまでどんな女性の顔にも見たことのない、怪しく生々しい表情だった。喩えるなら、そう――獲物をとらえた獣のような。
「私も幸せだわ、君みたいなかわいい子と……でもねえ、お食事なんてつまらないと思わない? もっといいことしましょうよ……私が教えてあげるから……大丈夫、ここには誰も来ないわ、心配しないで……」
ずるり、と彼女は舌舐めずりをした。
へ、――蛇だ!
僕はパニックに陥り、わけのわからないことを叫びながら保健所を飛び出した。
失意と後悔とを引きずりながら寮の廊下を歩く。心臓の鼓動はまだ鳴りやまない。先生の舌舐めずりの音が、鮮明に頭に残っている。僕は見てはいけないものを見てしまったのだ。
ああ、神様。
僕は訴える。
どうして僕の願いを聞いてくださらないのですか。これまで僕はそれなりにあなたに付き従ってきたではないですか。毎日毎日聖書を読んで、食べ物の制約も守り、礼拝も……いや、それは時々サボっていたけれど……けれども、こんな小さな願いすら聞き届けていただけないほど僕はあなたに対して反抗的だったでしょうか。別に、大したことを望んでいるのではありません。僕が求めているのは富でも名誉でも地位でもないではないですか。ただこの苦役から解放されたいだけなのです。元の暮らしに戻って、平穏に暮らしたいだけなのです。それなのに神様、どうしてなのですか。
その時だった。
あてどなく彷徨う僕の耳に、聞き覚えのある旋律が流れ込んで来たのは。
その優しい調べに誘われるがままに、僕はとある部屋に辿り着いた。
音の主は、小さなオルゴールだった。机の上で、誰もいない部屋で、独り淡々とメロディーを奏でている。その姿はまさしく聖母のそれであった。
曲は礼拝で毎回歌わされている聖歌だ。普段は耳に入れるだけでもいまいましく感じるその曲が、今の僕には何故か心地よく、僕はその音の波の中をいつまでも漂っていたいと願った。
やがて音の一粒一粒から、僕の心に様々なものが蘇った。それは母親であり、野心であり、友であり、汚れのない思考であり、純白であった。
そして僕は悟った。
「神様、あなたなのですね」
僕は偶像と化したオルゴールに語りかける。
「ああ、僕は間違っていたんだ。そうだ、わざと悪いことをして罰せられ、学校を追い出されるなんて、間違っているに決まってる。僕にはまだやれることがたくさんある、まだやり直すには遅くないんだ。あなたはそのことをずっと教えて下さっていたのですね。愚かな僕に、正しい道を示そうと……ああ、神よ、我らの父よ――」
――感謝します。
しかしその結びの言葉が僕の口から発されることはついになかった。
何故ならその時、僕の肩をガシリと掴む者があったからだ。
振り向くと、そこには悪魔がいた。
「上が騒がしいから何かと思って見廻りに来てみれば……貴様にはほとほと呆れたよ、もうこうなっては我らの父とて救えまい」
寮監は、半ば憐れむような口調でそう告げた。僕は自分が起きて早々足を滑らせすっ転び床に尻もちをついたことをぼんやりと思いだしていた。
こうして僕は退学処分を受け、薄汚いこそ泥という汚名を背負って田舎に送還されたのだった。